百花の王

「おまえはわしの妹だ。血を分けた、たったひとりの妹だ。だから一度だけは赦す」
 兄の声が耳を打つ。
 ギネヴィアは黙って目を伏せた。握り締めた手にファイアーエムブレムが包まれている。それを取り上げもしないのか。
 兄が自分を殺さないこと、拒絶もせず怒りもせず、ただ自分のしたいようにさせること。そして兄自身は彼のしたいことをする。
 ギネヴィアはすべてを理解した。
「私を殺さない代わりに、世界を滅ぼすとおっしゃるのね……」
 その夜、兄の腕に抱かれながら、ギネヴィアは手で顔を覆って泣いた。
 ベルンでは王宮の温室にしか咲かぬ花、牡丹にも例えられるベルンの王妹。王ゼフィールの、唯一人の肉親。
 彼女は兄以外の男を知らない。

 いつから始まったのだろう。
 自分の、兄に対する憧憬は。
 幼い日、父のいなくなった執務室で、眉根を寄せながら政治を執っていたゼフィールの顔。 執務室の前庭に忍び込んでその様子を窺った日を、今でも鮮明に覚えている。兄は若く逞しい王で、それがギネヴィアには誇らしかった。父が死ぬまで、兄のことなど殆ど知らずに育ってきていた。兄と顔を合わせる日は少なく、そして血を分けた兄妹でありながら、お互いの心の交流は滅多になかった。父王はギネヴィアの部屋によく顔を出したが、兄を伴って来ることはなかったし、兄のことを話題にのぼせることも決してなかった。
 幼い日には理解できなかった。父と兄の間にある深い溝を。己を無視しつづける父に対し、兄が溝を埋めようと努め、ついには諦め、それでもやがて父が兄を溝に突き落とそうと画策するまでに、どれほどの時間と心が費やされたのだろう。
 父が死んで王になった兄は、たまさかに会う都度、ギネヴィアには優しかった。それが父に犯した罪の意識の反映であったことを、今ならギネヴィアも理解できる。それ以上のことも。
 ゼフィールは恐れていた。十以上も歳の離れた、たった一人の妹にまで拒絶されることを。だから政治には武断を以って知られた王は、妹には甘すぎると言われるほど優しく接した。それはギネヴィアの自尊心をくすぐり、成長するにつれて、兄そのものに妹の目を向けさせる結果となった。兄と妹が顔を合わせる機会がそう多くはなかったことが、いっそうこの傾向を助長した。
 ギネヴィアは兄のことをもっと知りたいと思った。少女とはいえ才媛と呼ばれた娘である。手管を尽くして兄の情報を集め、やがて暗い噂も数多く知った。
 そこで引き返す手もあったのだろう。だがギネヴィアは恐らく、兄が持つ闇そのものに強く惹かれたのだ。同情という名の感情で。
 ゼフィールは拒んだ。だが兄もまた、ギネヴィアに受け入れられることを切望していた。意識ではなく無意識が、血の繋がりに飢えた孤独な本心が、兄の理性を曇らせた。
 お互いの唇を貪りながら、兄妹は泣いた。ギネヴィアは破瓜の痛みに耐えるために、そしてゼフィールは、肉親に初めて受け入れられた安堵と、それがこんな形で実現されたという罪悪感に掻き立てられて。
 ゼフィールが何処かで「竜」を連れてきたのはそれから半年ほど後のことだ。
 自分との因果関係がわからぬほど、ギネヴィアは視野の狭い娘ではなかった。

「人は醜い」
 ギネヴィアのすべらかな手をなぞりながら、ゼフィールは言う。
「嫉妬、羨望、権力欲……。つまらぬもののために己を見失い争い合う。儂はそうしたものから世界を解放しなければならん」
 ギネヴィアは頭を起こして、兄を見た。マードック将軍もブルーニャも、兄の孤独を癒すことはできない。
「ご自分のことでしょう」
 ギネヴィアの声は悲しみに震えていた。ゼフィールは視線をギネヴィアの顔に向けただけで何も言わない。
「お兄さまがおっしゃっているのは、ご自分のことです。自分を滅ぼすために世界を巻き込むなど」
 言葉を続けることができずに、ギネヴィアは忍び泣いた。ゼフィールは黙ったまま、妹の掌に口づける。大陸に覇を唱える権力者でありながら、その接吻は場違いなほどに優しい。
「儂を止めたいか」
 ゼフィールの低い声が、ギネヴィアのすぐ耳元で囁いた。ギネヴィアは目を閉じて兄の首を抱いた。
「だが無駄だ。儂の計画はすでに滑り出しておる。誰にも邪魔はさせん」
「私を、殺して」
 兄に縋りつきながら、ギネヴィアは嘆願した。
「お兄さまを誘惑したのは私です。だから私を殺して。世界ではなく、私を」
 ベルンを出奔したのは兄に殺されたかったからかも知れない。
 ゼフィールが低く笑った。
「溢れ出した水は盆には戻らぬ」
 侵略のことを言っているのではない。ギネヴィアにはすぐにそれがわかった。
「今更むかしには帰れぬのだ」
 世界の壊滅を止めるためには、兄を殺すしかない。
 そのことを知っていながら、最後の望みをかけて、ギネヴィアはベルンを飛び出した。
 兄が自分の命と一緒に、忌まわしい過去を断ち切り払拭してくれるかもしれないと。
 しかしすべての希望は打ち砕かれて、そしてギネヴィアは泣いた。
 自分が破滅に追いやった男の首を抱えながら。

 ギネヴィア王女とその近衛騎士ミレディが出奔したという情報を、ゼフィールは本国へ引き返す路の途中で得た。ナーシェン麾下の密偵によれば、再びフェレ家のロイ侯子のもとに身を寄せているという。ナーシェンはゼフィールに使者を遣わして、王女を逃したことに対する詫びと、今後王女を奪回するのにもっと兵士を投入すべきかどうかを問うてきた。
「放っておけ」
 ゼフィールは短く言い捨てて帰国への進軍を続けた。
「但しギネヴィアを逃したことについての責はナーシェンが負う。そう伝えよ」
 ゼフィールは騎上で空を振り仰いだ。
 ベルン王の瞳に雲が映る。
 その瞳の奥に、虚無が広がっていた。

 同じ空の下、ギネヴィアはフェレ家のロイと再会していた。
 ファイアーエムブレムを手に握り、暗い決意と兄への思慕を心のうちに隠して。
 泣くのは夜を迎えてからでいい。
 百花の王と讃えられる美貌で、ギネヴィアはあでやかに微笑んだ。
(了)
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