| 運命の女王 | ||
* ベルンの王宮の奥深く。 玉座を護る国王ゼフィールを、ついにリキア騎士の槍が貫いた。 ゼフィールの繰り出したエッケザックスが楯で払われ、既に所々破られたベルン王の鎧に鋭い槍が突き通った瞬間を、ギネヴィアは見ていた。 音は不思議と聞こえなかった。騎士が槍を抜き、兄が血を吐いて倒れ、固唾を呑んで見守っていたエトルリア軍の兵士達に安堵と歓喜が走る。ロイ将軍がこちらを見、そしてそれにつられるように、エトルリア軍の主立った指揮官が一様にギネヴィアを振り向いた。 それでギネヴィアは、自分が兄の傍に立たねばならぬことを悟った。 ギネヴィアは兄に向かって足を運んだ。走り寄りたい衝動と逃げ出したい衝動、相反する二つの感情を胸の奥に押さえつけ、唇を固く引き結んで。居並ぶエトルリア兵士達の人だかりを抜け、兄が倒れている場所まで至って初めて、まだ兄が死んでいないことを知った。虫の殻のような鎧の中で血を流しながら、兄の視線が虚ろに天井を彷徨っている。ギネヴィアは思わず言葉を投げた。 「お兄様」 ゼフィールの頭が緩慢に動いた。ギネヴィアを認めた淡い茶色の瞳に光が甦る。 その視線はまっすぐにギネヴィアに向けられた。 「そなたは触れてはならぬ花だった」 ゼフィールはその言葉を血と共に吐き出した。そしてそれきり、ギネヴィアを見たまま黙り込んだ。 兄の最後の言葉だった。 くぐもった声はエトルリア軍のざわめきと具足の立てる音にかき消されていた。血の気を失った唇のその動きは、ごく僅かなものだった。 だがギネヴィアには伝わった。 ギネヴィアは微動だにせず兄を見つめた。それ以上声もかけず、泣きもしなかった。ただ黙って、兄の顔を食い入るように見た。 錯覚だったかも知れない。兄の唇の端がわずかに捩れた。笑う形に。 そして兄の目から、ゆっくりと光が消えた。 ギネヴィアは待った。 「ギネヴィア王女」 年下のロイの声が労るようにギネヴィアの耳に届いた。 ギネヴィアの中の糸がついに切れた。喪失感が泉のように体奥から溢れ出し、ギネヴィアは力なくその場に頽れて泣いた。 * ゼフィールの死後、一月が経った。 三軍将の最後の一人ブルーニャ将軍は、竜の神殿の手前でエトルリア軍を迎え撃った。エトルリア軍。エレブ大陸の雄、軍事大国ベルンと並び称される文化国家の名を冠したこの軍隊は、実状はリキアのロイ将軍に率いられた各国・各地方の混成部隊である。 そしてギネヴィアもまた、このエトルリア軍の一員であった。 決戦の前、ギネヴィアはミレディに命じて自分の身をブルーニャのもとに運ばせた。ミレディは難色を示したが、ギネヴィアは我を通した。 夜陰に乗じて現れたギネヴィアを、ブルーニャはさして驚かずに迎えた。 「お久しぶりでございます」 頭を垂れて挨拶の言葉を述べる。 ブルーニャは、ギネヴィアがやってきた意図をもちろん察していた。 「降伏をして欲しいの」 「それは承服致しかねます」 「これ以上戦っても勝ち目がないことくらいはわかるでしょう」 「お言葉ですが、勝つために戦うのではございません」 ブルーニャの言葉には、意図せずに険が走る。彼女は死んだゼフィールを慕っていた。 「死ぬために戦うというの?」 「武人には意地というものがございます」 「嘘ね」 ギネヴィアは即答した。ブルーニャの面が固くなる。 「兄を追ったところで兄は喜ばないわ」 その言い方は酷に過ぎた。ゼフィールが愛したのはブルーニャではなくギネヴィアだ。そして二人ともその事実を知っていた。 「ゼフィール陛下の御為だけではありません。お国を裏切った貴女にはおわかりにならないでしょうが、通すべき筋というものがあるのです」 「でも死ぬことは無いはずだわ。兄が死んだ後のベルンに、あなたの力が必要なのよ。三軍将で残ったのはあなただけ。そしてあなたは、ベルンに残された数少ない兵士達まで道連れにして、一時の感情の為に自殺しようとしている」 目の前の王女に対する怒りが、ブルーニャの中に沸き上がった。 「貴女に私の気持ちはおわかりになりません!」 ブルーニャは激昂した。涙に潤んだ藤色の瞳がギネヴィアを睨みつける。 「私は竜の神殿を護ります。陛下のご命令だからです。世界を解放するために陛下がお命をかけたのなら、家臣である私はそれに従うだけです!ベルンの誇りをお捨てになった殿下には関係のないことです!」 ギネヴィアの榛色の瞳が怒りに煌めいた。 「誇りですって?」 ブルーニャは気圧された。そしてすぐに、それを恥と感じた。目の前の王女はほんの小娘に過ぎないが、その容貌にそぐわぬほどの強い精神が内在することを彼女は知っている。 「ベルンの誇りを踏みにじったのは兄よ。そしてあなたたち三軍将。兄は公正な王であることをやめ、あらゆる国を滅ぼして、竜などという得体の知れない存在に世界を預けようとした。あなたたちはそれに従った。本来なら王の凶行を食い止めるのが家臣であるはずなのに、その努力を怠って」 思うより速く、ブルーニャの手が動いた。 甲高い音が鳴って、ブルーニャの右手がギネヴィアの頬を打った。勢いでギネヴィアがよろめく。 「公正などと、どの口でそんなことを!陛下を誘惑して畜生道に引き込み、深い絶望に突き落としておきながら!」 ブルーニャが喚いた。彼女は泣いていた。ゼフィールを求めたのはギネヴィアが先だった。王がどうしても異母妹への思慕を思い切ることができず、その都度苦しんでいたのを彼女はよく知っていた。 「あなたが死ねばよかった!陛下ではなく、あなたこそが!」 それは主家の姫に対する言葉ではなかった。ブルーニャにとってギネヴィアは、唾棄すべき女でしかなかった。愛する男の心を奪ったことに対する嫉妬と、死なせたことに対する怒り、だがそれ以上に、ギネヴィアこそがゼフィールを追いつめたという思いが、彼女を憎悪に駆り立てていた。 頬を押さえたギネヴィアがブルーニャを睨みつける。 「兄が私を生かしておいたのよ。離れる決心も、殺す決心もできずに。いっそ殺してくれればよかったのに」 ギネヴィアの目にも涙が光る。 「でも私は彼を止めようとしたわ。彼が間違った方向に倒れるのを止め、一緒に生きようとした。一緒に死んでもよかった、離れても、殺されてもよかったのよ。兄が王として道を踏み外し、歴史に汚名を残そうとさえしなければ!」 ギネヴィアの声は次第に高くなる。 「でも彼が死んでしまったら、私は生きるしかないわ!私の犯した過ち、兄と私で犯した過ち、兄の犯した過ちを正さずに死ぬことなどあり得ない。自分たちを認められないから世界ごと滅ぼすなんて正気の沙汰じゃないわ!あなたやマードックは間違ってる、兄を止めて兄の為に生きるならまだしも、兄の為に死のうと考えるなんて!」 ブルーニャは反論しようとして躊躇った。ギネヴィアの言葉には自己弁護もあるが、同時にゼフィールの弱さも的確に突いていた。ブルーニャの心などに頓着せず、ギネヴィアは尚も言い募る。 「私は死にたかったのよ、ずっとずっと死にたかった!私が兄を追いつめた、そんなことはわかってる。途中で死ぬ方が楽だわ。自分で引き起こした悲劇の結末を見なくて済むし、その責任を負わなくて済むんだもの。でも私は全て負うわ。全てを負って責を担い、そしてベルンを立て直す。それが私の、お兄様の為にしてさしあげられる唯一のことだから」 その言葉にブルーニャは瞠目してギネヴィアを見つめた。 ギネヴィアは昂然と見返した。涙を振り払うこともせず、言葉を紡ぐ。 「お兄様が誤った道を、私が元に戻します。だから私は命を捨てない。兄が投げたものすべてを受け取って未来へ返します。竜も、人も、国も、民も」 目の前の娘に、ブルーニャの無意識は敗北を認めた。 より強く、より遠くを見、より強固な意志につき固められたゼフィールの異母妹。 ブルーニャは長い息を吐き、俯いてその面に笑みを湛えた。 「ギネヴィア陛下」 その呼称に、相手が息を飲む音が聞こえた。 「陛下のお覚悟はよくわかりました」 ブルーニャは視線を上げ、藤色の瞳でまっすぐにギネヴィアを見た。 「陛下は私の主君ではございません。ですから臣下の礼を取ることは致しません。ですが、ベルンの主はあなたです。たった今、それがわかりました。城内に通告を出し、個人的な降伏や離脱を促します。傷病兵、若人、そして家族のある者はわざと主戦場から遠いところに配置いたします」 ギネヴィアの緊張がほんの少し緩んだ。 「ですが私自身は、やはりゼフィールさまに添わせていただきとうございます。そして同時に、陛下に敵意を向ける血気に逸った者たちも、共に連れて冥府に参ります」 「考え直してもらうことはできないの。兄があなたにあの魔竜を護れと命じたのは、あなたを生かそうと思ってのことでしょうに」 「おそらくは左様でございましょう。ですが私にとっては、ゼフィール様あっての世界だったのです。この世が竜によって解放されようと、強国の横暴に翻弄されようと、何ほどのことでもないのです。私の心は既に死にました」 そう云ったブルーニャの心情を、ギネヴィアは暗黙のうちに理解したようだった。 二人の女は無言で互いを見つめ合った。 夜気が緩やかに二人を纏う。 やがてギネヴィアがゆっくりと目を伏せた。外套を手に取り、その場を去りかける。 「女王陛下」 背に、ブルーニャの呼びかけが突き刺さった。 「ゼフィール様の覆した世界を、ほんとうに立て直せるとお思いですか」 ブルーニャは声を抑制していたが、その芯は震えていた。 ゼフィールの過ちを直せると云うのか。 「できるわ。してみせる」 ギネヴィアは振り向かず、答えた。 その背から青い炎が立ち上る。ブルーニャの目にはそう映った。 「私は彼を愛したから」 ギネヴィアは外套を纏い、去った。 一人遺された部屋で、ブルーニャは堰を切ったように声を上げて泣いた。 * ベルン動乱の時期、ベルンのギネヴィアは「運命の王女」と呼ばれた。 エトルリアを救い、ベルンの奥地にまで軍を進めた英雄、リキアのロイは、エトルリアによるベルンの分割統治を妨げた。権力がエトルリア一国に集中するのを防ぐのが狙いだったとも云われている。ベルンは領土を縮小したものの分割は免れ、ギネヴィアのもとで復興と他国への贖罪を開始した。 ギネヴィアは兄ゼフィールを凌ぐ辣腕を振るい、疲弊した祖国を立て直した。現在では中興の祖として、国を出奔したことさえその先見性を賞賛されている。 運命の女王。 ギネヴィアは、今ではこのようにベルンの人々に呼ばれている。 |
| (了) |
| 戻る |