夢の名残り



 その夜。
 それが最後の逢瀬となることを、男も女も承知していた。
 女は均整の取れた肢体を寝台に投げ出し、涙に潤んだ目で男を見上げた。愛情ではなく、憐憫を帯びた情欲のみがこの場を支配していることを女はよく知っていたが、それで構わなかった。女は幾度も男を呼んだ    名ではなく敬称で。
「陛下」
 それに応える男の言葉はなく、ただ常ならずその夜、ゼフィールは優しかった。
 ブルーニャにはそれで充分だった。


 エトルリアと並び二大強国とされたベルンは、先代の国王時代に新都や宮殿の増築に精を傾け、ゼフィールが王として立った頃にはすでに斜陽を迎えていた。ゼフィールは爛熟と退廃を宮廷から一掃し、武断的な政治を執って財政の建て直しに意を注いだが及ばず、後年はゼフィール自身が内政から侵略へ方針を転じたことも手伝って、国内はいよいよ貧困の気配を強くしていた。それでも強国であった矜持が今も国民を支え、現王への支持も篤い。しかしゼフィールの目は今や国政には向けられていなかった。かつて善政への熱意に満ちていた青年王は、瞳に虚無を抱く孤独な為政者へと変じた。ブルーニャはその過程を目にし、肌で感じながらゼフィールを留めることは出来ず、今となっては彼の心の空洞に共に喰われるほかはないと思い詰めていた。
 すべては暗闇の巫女と呼ばれる少女をゼフィールが見出してからだ。だが不吉な予兆はそれ以前にもゼフィールの周囲にあった。王の生い立ちそのものが、現在のベルンの命運を悲劇へと導いているとも言える。
 マードック軍壊滅の報から程なく、エトルリア軍の馬蹄の音がベルン奥地まで聞こえてきた。
 ブルーニャに恐怖はなかった。もとよりゼフィールに捧げた命である。ブルーニャは淡々と王都での戦支度をし、身辺を整理し、非戦闘民の山間への避難を指揮した。
 だが一両日中にはエトルリア軍の先遣が到達するという日、ゼフィールはそれまでの言を翻した。
「おまえには竜の神殿に駐留する一軍を任せる。イドゥンを伴って王都より去れ」
 ブルーニャはその言葉が信じられず、瞠目して主君をただ見上げた。
 口を開き、異議を唱えようとした、しかし言葉すら見つからない。ただこみあげる悔しさが胸に滲んで涙が湧き出し、それを抑えるのに精一杯だった。
「陛下、私は、私は・・・・・・」
 大勢の家臣たちが居並ぶ軍議の場でゼフィールが唐突にそれを告げたのは、ブルーニャの反論を封じるためだ。ブルーニャは唇を噛み、頭を垂れて、震える声でようやく諾意を示した。ゼフィールの傍らに立つ暗闇の巫女が、心持たぬ人形のような瞳で黙然と自分を見つめている。嫉妬よりもっと根源的な感情がブルーニャを満たし、床に向けられたその目は怒りの色を帯びて輝いた。

 翌朝、ブルーニャはイドゥンを連れて王都を発った。
 黒地に緋の紋章を象った王旗の下で、厳めしい鎧に身を包んだゼフィールが彼らを見送った。普段は表情を持たぬ国王の目が、軍勢の先頭に立つ女と少女に向けられ、そしてほんの一瞬和らいだ。
 それを見逃すブルーニャではなかった。
 生きよ。
 声によらず告げられたその言葉が、ブルーニャの中の何かを打ち壊した。
 進軍の最中、ブルーニャはマントの襟を立て、人知れず泣いた。



                      *


 そして三ヶ月の後。
 竜の神殿を護るブルーニャの眼前に、エトルリア軍が雲霞の如く広がっている。
 暗闇の巫女は神殿の奥で、遺言となったゼフィールの命を果たすべく用意を進めている。
 山間の盆地に朝日が顔を出すと、敵軍の鎧が一斉に煌めいた。
 対するブルーニャの軍は、敵勢の三分の一に満たない。
「陛下」
 いまだ赤味を残す天へ向かってブルーニャは呼びかけた。
「ご下命に背くことをお許しください」
 今日は抜けるような青空になるだろう。それが経験上、ブルーニャにはわかっていた。
 風がブルーニャの長い髪を嬲る。
 敵軍を前にブルーニャは微笑んだ。
 狂気と充足を孕んだ鬼女の笑みだった。

 朝靄の中に、愛した男の夢の残骸が散らばっていた。
(了)
戻る