| 花宵の夢 |
| 758年 晩春 |
爽やかな風がアイラの髪を嬲る。 長い黒髪が宙に舞って、生き物のようにうねった。 牧草の上に座り込んで、ホリンはそれを見上げる。 戦場で鬼神のように活躍をするアイラは、傍で見ると意外なほど小柄である。 細身の体躯にはそれでも充分に筋肉がつき、身のこなしは猫科の獣のようにしなやかだった。 象牙の肌と、切れ長の黒い瞳、艶やかでまっすぐな髪。一般的なイザーク人の外見をそなえつつ、それでもホリンの目には、彼女は他のどんなイザーク女性よりも輝いて見える。 アイラがホリンの視線に気づいた。 「どうした」 覇気を帯びた笑みは、しかし決して傲慢に見えることはない。 いつもは滅多に感情を表にあらわさず、またシャナン王子の後見人としての責を負っているため、えてして口数が少なく老成して見える彼女だが、そうして笑っている姿は、二十歳前後の齢相応に若々しく華やいで見えた。 「別に何も。お前に見とれていた」 ホリンは素直に答えた。アイラは言葉の意味を理解するのにちょっと手間取り、それがわかるなり頬を赤く染めた。 「冗談を言う気か」 「まさか」 拗ねたような受け答えがおかしくて、ホリンは笑った。 「本当にそうなんだ」 ホリンが尻をはたきつつ立ち上がる。 それをアイラがじっと見守っていた。物言いたげな表情がその視線には宿っていた。何を言おうとしているのかホリンには想像がつかない。ホリンが立ち上がりきったところで、意を決したようにアイラは近寄って、ホリンの胸にそっと頭を押しつけてきた。 次に言われた言葉を理解するのに、ホリンはかなりの時間を要した。 「身ごもった」 耳を澄ましていなければ聞き取れないような、小さな囁き声。 ホリンは呆然とアイラを見つめた。 彼女も恥ずかしいのか、下を向くばかりでホリンのほうを見ようとはしない。風に舞う髪に見え隠れするアイラの耳が真っ赤になっていることに、ホリンは気づいた。 「アイラ」 アイラは頑なに地面を見つめている。その小さな肩を抱いて、ホリンは途方にくれた。 「俺は・・・」 草に覆われた大地の上に、二人の影が長く伸びている。 風は次第に収まりを見せ、周囲にはようよう薄暮の世界が広がる。 陽がゆっくりと西に沈んでいくのを、ホリンはじっと眺めた。 アイラを腕に抱いたまま。 あれはいつのことだったろう。 母国イザークで、幼い王女を見たのはもうずいぶんと昔のことだった。 イザークとグランベルの紛争が大規模なものに発展する前から、国境線での小規模な戦闘はたびたび繰り返されてきた。 イザーク王国は、国内に少数部族の自治領をいくつも抱える。そうした土地の人々にとって、イザーク王家は君主ではなく征服者である。内乱が頻発し、それを制圧するために力あるイザーク貴族が自治領領主として派遣された。 ホリンの家系は、そのようにして異部族の自治領内に送り込まれた、イザーク王族の成れの果てだった。 オードの血脈は継ぐものの、地元民との混血が進み、その容貌は生粋のイザーク人とは似ても似つかぬ姿となった。淡色の髪、薄色の瞳、肌の色は黄味が薄れ、ホリン自身はむしろアグストリア人の特色を多く持つ。 ホリンが十三の歳のとき、隣接する自治領領主がグランベルに唆されて、ホリンの一族の自治領を侵略した。 当時のイザーク王は当然の如く援軍を派遣したが、時すでに遅かった。ホリンの父が家族と暮らしていた城はすでに落とされ、城門前には彼らの首が並べられていた。生きのびた領主の嫡流は、ホリンただ一人だった。 イザーク軍はすぐさまその城を奪還したが、その後の領主にホリンが命じられることはなかった。領地を平穏に治められなかった父の罪が子に及んだのだ。ホリンに追及の手が伸び、十三歳の少年は身一つで姿をくらますよりなかった。 国境線はイザークの軍隊が置かれ、厳しく管理されている。ホリンは王都イザークを目指し、そこから海路を使って隣国レンスターへ逃れる手段をとった。 そして、その王都で、戦勝を祝う式典に参加したイザーク王の一族をじかに目にしたのだ。 地を揺るがす、万民の歓呼の叫び声。 紙吹雪が舞い、白鳩が放たれる。 その興奮の中心、王城のバルコニーに、イザーク王の家族が姿を現した。 穏やかな雰囲気の王と王妃。鋭敏な知性と強靭な肉体を併せ持つ、成人したばかりの王太子。 そしてその妹の、六、七歳ほどの歳のアイラ王女。 ホリンはその一族に魅了された。かつて始祖を一つにし、今は遠い他人となった彼らに。彼らは王族で、栄誉と財を持つ。自分はいまや何もかも失って、たった一つ残った自分の身の安全さえこの国では危うい。一般民衆に混じって、彼らを下から見上げている。 レンスターに無事逃れて、方々で傭兵や剣闘士の真似事をしつつグランベル大陸を周遊していたときも、その印象はホリンの心に強く残った。 それは憎悪や嫉妬を伴わない、純粋な憧憬だった。 祖国イザークの輝かしい郷愁の記憶の、原風景。そこにはいつも、あの小さな王女がいた。 一本立ちの木の下に草床を作り、二人はゆっくりと愛し合った。 行為の後の物憂い、満ち足りた時間。日頃多くの言葉を交わさない二人だったが、この日はいつにもまして沈黙が大きかった。 アイラを抱くことへの躊躇いが、実は今でもホリンの埋にはある。 アイラが主筋の女性に当たるからではなく、あの時見た風景の、輝かしさの中心であった少女を自分が独占することに、恐怖めいた感情を覚えるからだ。 うずくまって幼児のように眠るアイラを、ホリンは見守った。 時が時なら、二人の身分は違いすぎた。自分が十三だったあの時点では。 今は、二人の立場は変遷している。亡国の王女と、使える主を持たぬ貴種の男。吟遊詩人たちが好んで歌に紡ぎ出しそうな、悲哀を背負った恋人同士ではある。 ホリンの中では、アイラはまだ、強盛を誇る国の王女だった。これまでも、これからも、自分が死ぬまでそれは変わらないだろう。対等に口を利き、彼女をこの腕に抱いていても、自分がアイラに、崇敬に近い気持ちを人知れず抱きつづけることは変わらない。 右手でそっとアイラの頬に触れる。剣を握りなれた骨ばったホリンの手には、その顔はいかにも小さかった。 アイラが目を覚ます。長い睫毛に縁取られた目蓋が動いて、鳶色の瞳が現れた。 「・・・・ホリン?」 「起こしてしまったか」 ホリンが苦笑する。しかし彼女はすぐに目を閉じた。幸せを噛みしめるようにゆっくりと身動きをして、身体の上にかけた服に包まり直し、ホリンの肩に頭を凭せかけてきた。 「寒いのか」 「・・・・・ん」 一度目覚めかけた心が再び眠りの淵に落ち込んでゆくときの、条件反射的な生返事。 ホリンはアイラの身体の下から腕を回して、彼女の肩を引き寄せた。 「・・・ホリン?」 とろとろと眠りかけていたホリンはその呼びかけに引き戻された。 「ん?」 アイラのほうに顔を向ける。 夜の闇の中で、鳶色の瞳が自分を見つめていた。 「良い子が産まれると思うか?」 眠気でぼんやりとしてはいるのだろうが、真摯に悩む雰囲気もその声からは感じ取れた。 ホリンはアイラを安心させるために低く笑う。 「もちろんだ」 微風が木の枝に触れていった。 葉が一枚、二枚、かさりと落ちる。 静寂に囲まれて、二人は幸福に眠った。 |
| (了) |
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