| 春の月 |
| 761年 春 |
深い息をひとつして、彼女はそれなり息絶えた。 漆黒の髪が熱風に舞う。頭ががくりとのけぞり、深い黒の瞳ははるか虚空を凝視している。 メテオの魔法がもたらした胸の傷は、肺腑と心臓を貫いて背へと抜けている。口の端から、一条の血の筋がこぼれでていた。 「アイラ」 骸を抱き起こし、その頬に触れながら。 ホリンは己の恋の終わりを知った。 おまえは還るべきだったのだ。 悔恨と慚愧の念がこみあげる。 王女として育った場所、春霞む湿った夜を持つ東方の地へ、おまえは子供たちと共に還るべきだったのだ。 返すべきだった。無理矢理にでも。 「ホリン。私は帰らない」 常も強情を通すアイラだったが、そのことにかけては断固として意見を翻さなかった。 ザクソンで、リューベックで、フィノーラで。ふたりは同じ話題を幾度も蒸し返し、そのたびに言い争いになった。 「おまえはシャナンと共にイザークへ帰れ」 イザークも決して平穏の地とはいえない。何よりも、あそこにはイザーク一族の最大の敵、ドズル家の本隊が未だ駐留しているのだ。 「オイフェだけでは心許ない。おまえも一緒に行ってやれ」 「必要ない」 アイラは首を振った。 「シャナンはもう大きくなった。私があの子を護ってやれる時は去った」 それは確かに一面の真実ではあった。 数年に渡る流浪の労苦は幼い嫡子シャナンを成長させた。大人びたまなざしと剣に打ち込む真剣な姿勢は、往年のマリクル王子を彷彿とさせる。 だがアイラがここに残る理由は別にあった。 「だからこれからは、自分のために剣を振るおうと思う」 ホリンの目をまっすぐに見つめて、アイラは言った。 「ホリン、おまえがしたように」 おまえが私を護ったように。 この数年、ホリンはずっとアイラと共に戦場に立った。アイラが前線の敵中に飛び込み、縦横に剣を振るうその後ろを、ホリンが護ってきたのだ。アイラが後顧の憂いなく目の前の戦いに集中できたのは、ひとえにホリンのおかげといってよい。 その言葉を聞いて、ホリンは何も言えなくなってしまった。ホリンがシグルド公子の進軍を最期まで見届けるつもりでいることを、アイラは知っていた。 アイラの言うことを聞くべきではなかったのだろう。アイラを気絶させてでも、シャナンと共にイザークへ戻すべきだったのだろう。しかし。 「私はおまえと共にある。イザークへ帰るときは、ホリン、おまえも一緒だ」 アイラの表情の中には緊張があった。自分と同じく彼女もまた、グランベルへの行軍に言い知れぬ胸騒ぎを覚えていたのだ。ホリンを護るために、自分はここへ残ると、何よりもその瞳がはっきり告げていた。 空にあっては比翼の鳥。地にあっては連理の枝。 そんな文句が、ホリンの頭に浮かんだ。 お互いなしには生きられない宿命の二人。先には死なず、後には生きない。 ホリンは折れた。 もとより自分が死ぬつもりはない。だがいざ戦となれば、今までと同じようにアイラの背後を護ればよい。自分が死んでも、アイラは生き延びることができる。 そう思ったのだ。そのときは。 ホリンはイザークの地を思い出していた。 イザークでは今頃、満月に必ず虹の傘がかかっていることだろう。 静謐な森と、清い川と、深い森闇。 アイラの瞳のような。暗い暗い闇。 「っ……」 ホリンの口から、くぐもったような声が流れた。 跪き、アイラの体を逞しい腕で包み込む。 こぼれ落ちた髪の毛を、やさしく手繰った。 ここが戦場であることなど忘れ去ったかのように。 ホリンにとって、すべては終わった。 周囲には火の手が上がっていた。燃える隕石の熱を受けた枯れ草が発火している。 「ホリン!」 炎の背後で誰かが叫んだ。あるいはレヴィンの声だったかもしれない。 「何してる!そこは火に囲まれるぞ!」 「いいんだ」 声をかけた者にともなく茫然と、ホリンは応えた。 「逃げろ!」 アイラの表情、怒り、微笑、涙。そういったものすべてが、まざまざとホリンの脳裏に甦る。 「生きる理由もなしに、人は前には進めない」 アイラを抱いたまま、ホリンは動かず、呟いた。 アイラと過ごしてきたすべての日々が今思い起こされる。 幸福な記憶は火と熱に煽られて。 やがて鮮やかな紅に染まっていった。 |
| (了) |
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