神の掌
761年 春

 







 その女を愛していたのかどうかは遂にわからないままだった。
 母に会わせる顔がないことだけは確かだった。その女の妹に対しても。

 シレジア城の地下、慎重に隠され塗り込められ閉ざされた一角。
 レヴィンはその場所を避け続けてきた。
 何が置かれているかは知っている。勇者と呼ばれた先祖が受け継いだ、神の力の象徴。
 母に強く促され、その場所に降り立って、レヴィンは深くため息をついた。
 この場所は嫌いだった。できることならば一生、訪れずに過ごしたことだろう。
「フォルセティ・・・・」
 地下だというのに、神気を帯びた温かい風が舞う。その気配に清浄を感じる者もあるだろう、だが使い手として選ばれたレヴィンには、口を開いて贄を待つ魔獣の気配にも等しく感じられた。
 シレジアから逃げ出したのはこの所為だ。
 レヴィンは今こそ実感した。
 伯父と母の勢力争いに嫌気がさしたからではない。抗争の正当性は母にある。なぜと云えば、神が選んだのは伯父ではなく母の息子たるレヴィンであるからだ。シレジアの長たる資格は、神に選ばれるかどうかで決する。武力ではない。
 そして神はレヴィンを選んだ。
 いっそ伯父を選んでくれればよかったのだ。
 政治や権力に興味などない。安楽に母が過ごすこと、平穏に自分が過ごすこと、望んでいたのはそれだけだ。風神フォルセティがレヴィンを選んだと、知ったときに国を出たのはその所為だった。
 だが母は譲らなかった。フォルセティに選ばれた者がシレジアを支配する、それにあくまでこだわった。
 そしてマーニャが死んだ。
 愚かなのは自分か。母か。伯父か。
 唾を飲み込んで、魔道書が安置された扉を押し開く。
 空気が笑った、ような気がした。むろん錯覚に過ぎないだろうが。
 垂れ幕に仕切られた廟の奥で、青い光を放ってフォルセティの書はあった。
「魔道書は使う。だが心は渡さない」
 己の決意を呟いて、レヴィンは書に手を伸ばした。



 轟音が鳴り響く。
 目を開けて、自分が血塗れで草原に倒れているのを知った。
 息を吸おうとすると、胸に激痛が走った。喉から血が溢れ出る。肋骨が肺を傷つけていた。目を精一杯動かして、周囲の状況を把握しようとする。感覚のない右手が、誰かの腕を掴んでいた。繊細な左手の薬指に金の指輪が光る。
「・・・・・フュリー」
 自分が死なせた女の妹は、自分の妻になっていた。呼びかけたが、フュリーは目を閉じたまま動かない。風に煽られる緑の髪は血でべったりと濡れている。
 このまま俺は死ぬのか。
 レヴィンは戦慄した。自分が死ぬことではなく、フュリーをも護れぬまま息絶えることに、耐え難い恐怖を感じた。しかもフュリーの腹には自分の二人目の子がいる。
 グランベル軍の召喚するメテオはいよいよ激しさを増す。熱に煽られた草木が燃え上がり、あたりは赤一色に染まっていた。
(レヴィン)
 体の内側から、何かが呼びかける。
「あんたか・・・・」
 魔道書を手にしたときから、常に自分の中の片隅に巣くっていた存在。
 フォルセティ。
「いやだ。俺は俺をあんたに渡さない。死んでも」
 レヴィンは突っぱねた。レヴィン自身の意志を無視して体を乗っ取るほどには、フォルセティは強い神ではない。
(おまえは死ぬ。この娘も)
 それは単なる事実なのだろう。だがどんな脅迫より、レヴィンを追いつめた。
「くそ野郎」
 レヴィンは弱々しく吐き捨てた。自分には体を動かすことができず、妻に回復の杖さえ振ってやることができない。フュリーを護りたければ、自分の意識が落ちる前に自分の体をフォルセティに差し出すしかない。それを悟った。
(選べ。二人で死ぬか、この娘が残るか、どちらかだ)
 レヴィンは歯を食いしばった。
「くれてやる。フュリーを護ってやってくれ」
(承知した)
 体の内奥から、自分ではない者の意識が浮かびあがり、レヴィンの心を浸食していく。レヴィンは目を閉じて受け入れた。循環する血液、妻の腕を握りしめる手、胸の激痛。すべてがレヴィンから奪われていく。
 レヴィンの精神が細ってゆく。最後の最後に胸に残った思考。感情。
 フュリー。
 あいつはまたも泣くだろうか。
 それさえも闇の中で、弱々しい灯火のようにふっつりと途絶えた。


 誰かに呼ばれた気がして、フュリーは目を開けた。
 レヴィンに抱き上げられ、メテオの劫火から護られている。
 フュリーの目と、レヴィンの目がぶつかった。
「だれ?」
 焦点の合わぬ眼差しで妻が問う。
「私だ」
 レヴィンは答えた。
 フュリーの目が瞬いて、確かめるようにレヴィンの顔を覗き込んだ。
 彼女の美しい顔立ちはしかし純朴で、近づきがたい印象はない。
 じっとレヴィンを見上げていたフュリーの目から、涙が溢れた。
「嘘」
 弱々しい言葉が、彼女の口から漏れる。
「レヴィンさま。そんな。どうして」
 レヴィンの顔を見つめたまま、フュリーは嗚咽を漏らした。
 言葉もなく。
 フォルセティも黙って娘を見下ろしていた。なぜこの娘が泣くのか、フォルセティにはわかるようでわからない。ただこの娘がレヴィンの死を見抜いた、そのことだけは理解できた。
 フュリーを抱えたまま、フォルセティはシレジアへの道を歩きだす。
 フュリーはかつて夫だった者の体に縋って、いつまでも泣き続けていた。


(了)
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