感傷(ユリア編)
778年 初秋 





 深い井戸の底の暗い澱み。ユリアの精神はそこに眠っている。
 そうした井戸に時折垂れ落ちる水滴のように、ユリアは双子の兄の声を聞いた。
「この俺のために戦え」
 ユリウスがユリアの肉体を乱暴に扱い、破壊しようとしている。
 それが偽装にすぎないことを、ユリアは知っていた。
 ユリウスは結局は、自分を傷つけるなどとてもできないことをも。

 霧雨に包まれたバーハラ平原を終日歩きつづけた。
 虚ろに前に向けられた貌に水滴がつく。あるいはそれは自分の涙か。ユリアにはわからなかった。兄のために泣くのか、自分のために泣くのか。幽鬼のように平原をさまよいながら、ユリアはセリスの姿を探した。
 ユリウスに命じられたとおり、血を分けたもう一人の兄を殺すために。

 セリスの傍には常に、人の形を借りたフォルセティ神の姿があった。
 フォルセティは精神を封じられたユリアを殺すことを赦さなかった。
 それはユリウスの予想していた通りだった。

「ユリア・・・!」
 目覚めるとすぐ目の前にセリスの顔があった。心を尽くしてユリアを気遣うその顔立ちは、自分達兄妹の誰よりも、母ディアドラに似ている。その優しげな容貌を一目意識するなり、ユリアは泣き出した。安堵の涙ではなく悲しみの涙だった。ユリウスは私を殺すことに失敗した。今度は私が、ユリウスを殺さなくてはならない。
 解き放たれたばかりの体が痛い。怪我ではなく、悲嘆のために。
 こんなのは嫌、こんな結末は嫌、神様お願い助けて助けて助けて。
 セリスを殺してもいい、私を殺してもいい、けれどお願いです、私にユリウスを殺させないで!
 天幕の中で突っ伏したまま泣き続けるユリアを、『神』が見下ろす。
「ヴェルトマー城へ行け。お前はそこでおまえ自身の力を手に入れる」
「イヤよ!」
 渾身の力を込めて、フォルセティの言葉を跳ねつけた。
 後見者として自分を五年間育ててきたフォルセティは、ユリアの感情になど頓着しなかった。横柄ともとれる無情さで畳み掛けるように続ける。
「ほかにロプトを倒す手立ては無い。ナーガはロプトウスとは違う。宿主の精神を食い荒らしたりはせぬ」
 ユリアは答えなかった。
 懼れているのはナーガに支配されることではない。自分がユリウスを殺すことだ。
 ユリアが何を懼れているのか、もちろんフォルセティは知っていた。

 フォルセティはユリアに一日の猶予を与えた。
 冷たさを増す夜風の中で、ユリアはセリスの陣地をさまよった。
 皇帝アルヴィスを倒し、いよいよバーハラ城攻略を目前に控えて、セリス軍の中には明るい静けさが漂っている。
 それはユリアの心をますます沈ませた。アルヴィスは自分にとっては優しい父で、彼らはその父とは不倶戴天の敵同士だったのだ。
「ユリア」
 澄んだ声が背後から投げられる。ユリアは立ち止まった。振り向かずともそれが誰だかわかっていた。セリスだ。
「・・・疲れてるんだから、あまり歩かない方がいいよ」
 彼を恋人のように慕ったこともあった。実の兄とも知らずに。まるで母の人生をそのままなぞっているかのようだ。ユリアの頭の端に、そんな皮肉っぽい考えが浮かんだ。
 セリスは困惑の表情を浮かべつつも、意を決したように、こちらに歩み寄ってくる。
 ユリアは黙ってその場に佇み、彼を待った。
「君が妹だったなんて、知らなかった」
 ナーガよりバルドの血脈をより濃く受け継いだ、ユリアやユリウスと同じくディアドラを母とする異父兄。バルドの力は剣となって具現し、継承者の精神を揺るがすことはない。それがユリアには羨ましかった。
「セリス様・・・・」
 それともセリスお兄様と呼ぶべきだろうか。
 ユリアはまた、兄ユリウスのことを思い出した。
「レヴィン様はああおっしゃるけど」
 セリスがそう、切り出した。
「君は無理をしなくてもいいんだ」
 ユリアは顔を上げた。セリスの言葉が理解できなかったのだ。
「セリス様・・・?」
「ユリウスと戦うのが嫌だったら、彼を君が倒しに行く必要はないよ」
 セリスは優しく言った。
「僕らは・・・僕はユリウスを倒さなくちゃいけない。それは彼が弟でも従弟でも変わらないことなんだ。ユリアには気の毒だけど、僕はユリウスと戦わないわけには行かない」
 自分でも戦うことに迷い、納得のいく理由を探し、見つけ言い聞かせているかのように、セリスはゆっくりと言葉を吐く。
「だけど僕はユリウスを知らない。君のようにユリウスと育ったわけでも、ユリウスと暮らしてきたわけでもないからね。たまたま血が繋がってるだけで、僕にとってユリウスは生まれたときから敵同士、それだけだ」
 セリスは淋しそうに笑った。
「君が僕らの正義に無理矢理つきあうことはないんだよ。僕は君に君自身が望まないことはしてほしくないんだ。それは、叛乱軍の司令官としては失格なんだろうけど」
 ナーガの力なくして、どうやってロプトウスに対抗しようというのか。ユリアの疑問を汲み取ったかのように、セリスが言った。
「苦戦はするだろうけど、勝算がないわけじゃないよ。君は君の思うとおりに、行動すればいい」
 セリスの黒青の瞳が意志の光を帯びる。
「僕らは人だ。神じゃない。神には神の思惑があるし、人には人の、意志がある」
 セリスは告げなかった。だがユリアは知っていた。父アルヴィスを倒したのは、目の前に立つ異父兄のセリスだ。そしてセリスがアルヴィスに対し振るった神剣ティルフィングは、パルマークを通してアルヴィス自身がセリスに持たせたもの。神は神の思惑で、人は人の意志で動く。
 では私の意志はどこにある?
 ユリウスの意志は?どこにある?
 心の底ではわかっている。
 私の願いは、ユリウスの望むとおりにしてやること。そしてユリウスの願いとは・・・・・。
 答えは知っていた。
 ユリウスの行動が、ユリウスの心を物語っている。
 ユリアは決意した。

「ユリア?何故お前が・・・」
 うろたえた兄の声に僅かながらの歓喜が混じる。再び合まみえた喜びと、妹を失わずに済んだという安堵。死を予感する淋しげな諦念。それらはすぐに邪悪な波動に圧倒され、消滅した。
 ユリアの胸が痛んだ。もはや他に取るべき道はない。無言でナーガの書を抱え直し、魔道書に念を込め始める。
「マンフロイめ、しくじったか!」
 そう叫ぶユリウスの姿は、暗黒神そのものだった。膨大な邪気が周囲に満ち、闇の力がユリウスの右手に凝集する。その手が宙空に上がるより速く、ユリアの体が光を放った。
 ユリアの周囲から幾本もの光彩が湧き上がる。邪気を圧倒する、強烈な熱と光。それは一つに縒り合い、輝く巨大な竜の姿を取ってユリウスに襲いかかった。畳み掛けるように二度、三度、ユリアの魔法がユリウスを撃つ。
「ナーガめ・・・!」
 傷だらけのユリウスの体が膨らんだような気がした。手が、足が、奇怪な形に歪み始める。ロプトウスの血が人間の器を変化させ、暗黒竜に変貌しようとしている。
 竜に変じきる前に倒せる。ユリアは容赦しなかった。涙を流しながらユリウスを撃ち続けた。攻撃の手を緩めることだけは何があってもしてはならない。自分が声をあげて叫んでいるような気もしたが、音と光が耳を聾し、ユリアには何も聞こえない。
 最後にユリアの右手が翻った。神同士の戦いはそれで終わった。ナーガの魔法はロプトウスの心臓を貫き、ユリウスは黒い血を吐いて地に倒れた。
 血が大理石の床をひたひたと征圧していく。床に広がる長い髪。胸から血を流して横たわる人影。
 ユリアは目を瞠った。
 この光景をどこかで見たことがある。
 しかし倒れていたのは別の人物だ。
 母。
 最も近しい者をこの手にかけた。嫌悪感と罪悪感がじわじわと身を浸す。
 力を放ったばかりの両の手をぼんやりと眺める。林立する指の向こうで、母の髪がさらに血に染まってゆく。
 ユリアの既視感はそこで途絶えた。
 目の前にはユリウスが横たわっている。
 今のは誰の記憶だったのか。もちろんユリアにはわかっていた。双子という存在が結びつける絆の、最後の残滓。
 ユリウスがゆっくり目を開いた。人離れした威圧感は急激に失せ、ユリウスの命を此岸にかろうじて繋ぎ止めているロプトウスの生命力さえも今や尽きようとしている。
「ユリア・・・・」
 血と共に吐き出されるその声は、ロプトの書を得る前の、遠い昔のユリウスの声に限りなく近かった。
「ユリウス・・・・・・」
 ユリアの手からナーガの魔道書が落ちる。驚愕に見開かれた目、色を失う唇、青ざめた顔。その苦痛の表情は五年前、アルヴィスがディアドラを失うときに見せた顔と全く同じであった。
 愛するものを失う痛み。煩悶。苦痛。悔恨。良心の咎めと、置いてゆかれる孤独。
 ユリウスは満足げに微笑んだ。
「泣くな。これで、いいんだ」
 その言葉はユリアの心には浸透しなかった。ユリアの目から涙は溢れ続けた。喉の奥から喚きが漏れ、ユリアはユリウスに駆け寄って、縋りついた。
「ユリウス・・・・!ユリウス兄様・・・!」
 ロプトウスは去った。
 後に残されたのは、かつて暗黒神を内包した少年の骸と、彼を殺すことで世界を救った聖戦士の末裔の娘だけ。
 周囲の人々は音も立てず二人を見守る。
 ユリアの嗚咽だけが、いつまでも城の広間に呀していた。
 ほんの五年前、彼女の父が母の骸を抱いて泣いたその場所で。
 ユリアは兄の遺骸を抱いて、泣き続けた。
(了)
戻る