| 感傷(ユリウス編) |
| 778年 初秋 |
私室に滑るように入ってきた少女を見て、ユリウスは息を呑んだ。 艶を帯びて肩に広がる銀の髪が、華奢な鎖骨を覆い隠す。五年の空白を経て、彼の妹は確かに美しく成長した。 「ユリア・・・?」 警戒の響きがこもるのは止められなかった。つい先日会ったときと明らかに印象が違う。 ユリアの目がついとユリウスを見た。碧とも青ともつかぬ深い色合いの瞳。だがその視点は茫洋としている。 「どうし・・・」 上腕を掴んで妹の顔を覗き込み、 「マンフロイめ」 暗黒司祭が彼女にどんな術を使ったかを知って、ユリウスは舌打ちした。 ユリアはあらゆる感情を封じ込められて、生ける人形と化していた。 ユリアからユリウスを守るためには、確かにこの方法は悪くない。 「趣味のいいことを」 ユリアが抵抗しないと知って、ユリウスは臆面もなく妹を引き寄せた。乱暴に頭を掴んで顔を上に向けさせる。かつて少しも違うところのなかった二人の身長は、五年のうちに、ユリウスが頭一つ抜きん出る程の差がついていた。 ユリアの胸が息を吸って膨らんだ。 「ユリウス様ニ逆ラウ者……殺ス」 花のような色の小さな唇から漏れる言葉は、まさに機械的だった。 「お気に召しましたかな」 脇から老人の満足げなしゃがれ声が届いた。ユリウスが黄色の瞳を向けると、マンフロイその人が佇んでいた。 「この小娘を生かしておいてどうするつもりだ。ナーガの血を根絶せねば俺が危うくなるのだぞ」 ユリアを突き飛ばしてユリウスは責めた。ユリアは抗いも見せず、バランスを失って床に倒れこんだ。 「むろん危険は承知しております。しかし殺すのはいつでもできます。あのセリスを屠った後でも」 ユリウスは鼻を鳴らした。 「この人形をあの小僧に差し向けるのか。人質かつ敵というわけだ。一石二鳥とでも言うつもりか」 「さようでございます」 「だがこの娘がセリスの手に捕らえられたら何とする?きさまを殺せば術は解ける」 「その可能性に奴らが気づくとも思えませぬが」 ぬけぬけと言い放つ、その姿勢はユリウスの癇に障った。 「マンフロイ」 声は幼いといってもいい、だがその響きは氷よりも冷たく、マンフロイの肝を打った。 「きさまの主は何者だ」 マンフロイは急いで畏まった。 「暗黒神ロプトウスさま、でございます」 「限りある人間の身で、神に異を唱えるか。いつからそれほど偉くなった?」 「滅相もございません。お気に障ったのならお許しを」 こんな無力な年寄りをいたぶってもしょうがない。ユリウスは追及の手を引っ込めた。 「まあいい。ロプト教団の頂点に立てるのが誰のおかげかは、きさまもよくわかっているな?」 「もちろんでございます」 魔導師のローブの陰から、安堵の息が漏れた。 つまらぬ、とユリウスは思う。 「気を抜くな。セリスの傍にはフォルセティの気配がある」 「風神フォルセティでございますか」 「そうだ。くだらぬ小細工は奴に見透かされるぞ。慎重に行け」 「はっ」 マンフロイは退がった。 倒れたままのユリアは、起き上がろうという意思さえない。 ゆっくりとユリアに近寄って、長い髪をまさぐった。一握りの髪を掴んで、自分の鼻に引き寄せる。 「おまえからもフォルセティの匂いがするぞ、幼いナーガの娘よ。ディアドラの死後に拾われたか」 ユリアの身体の上に覆い被さってユリウスは問いかけた。答えがないことは承知の上だ。 ユリウスの喉の奥から低い笑い声が漏れる。 「おまえを逃したのは全くの失策だった。ディアドラともども始末するつもりでいたのに。フォルセティめがおまえを隠したのなら、今まで生きのびてこられたのにも納得がいく」 ユリアの細い首に両手を回す。ユリアは抗わない。口に笑みを残したまま、ユリウスが首に回した手に力をこめる。ユリアの指先がピクリと震えた。のけぞった細い首が、痛いほどに白い。 「・・っ・・・」 ユリアの口の端から唾液が漏れた。表情が僅かに歪む。息苦しさは感じるらしい。喉をかきむしろうというのか、華奢な二本の手がユリウスの指を引っかいた。それが意外なほど強くて、痛みを感じたユリウスは思わず手を離した。ユリアが咳き込む。 「ふん・・・まさしく人形だな」 指に滲む血を舌で舐め取りながら、ユリウスはごちた。ユリアは咳き込んではいるが、それだけだ。空気を吸おうという意思の外には、何の感情も働いていない。ユリアの咳が収まったところで、顎を掴んで顔を仰向けさせた。荒い息を続けるユリアの口を、自分の唇で塞ぐ。 ユリアの目は遠くを見たままだ。 床に倒れた衝撃で、ユリアの服の型紐は肩からずり落ちていた。それを空いた手で乱暴に引き下ろす。絹布の破ける音がして、ユリアの華奢な上半身があらわになった。 成熟にはいまだ遠い、童女めいた幼さを多分に残した体つき。イシュタルの官能には程遠い。それでも、これはこれで嬲りがいがあるとユリウスは思った。 「父と母がやったように、兄妹同士で子でも成そうか?」 ユリアの脇腹に手を這わせながら、ユリウスが笑みを浮かべる。 「一人目はロプトの末裔。当然だ」 首筋から鎖骨のあたりを接吻で覆ってゆく。 「二人目はナーガ。これはすぐに縊り殺す。三人目には、そうだな、ファラの後裔でも産まれるかも知れん」 ユリアの下腹部に手を当てて、ユリウスは声高く笑った。 「ナーガの後継者がこのロプトの子を孕む!復讐としてこれ以上のものはないな」 笑い声はうつろに部屋に響く。 急に声を低め、ユリアの耳に口を近づけて、ユリウスが囁きかける。 「どうだ?ナーガ。なかなか楽しかろう」 そのとき。 反応のないはずの、ユリアの口が動いた。 「・・・・ス・・」 ユリウスの目が、ユリアの顔に引き寄せられる。 「ユリウス様ニ逆ラウ者・・・・コロス・・・」 可憐な唇が、魂を無くした言葉を紡ぎだす。 仰向けのユリアの目から、涙が一粒転がり落ちた。髪に隠れた、耳の中へ。 その動きを、ユリウスが黙然と見守る。先ほどの笑声が嘘のようだ。 「マンフロイめ」 ユリアから手を離して、ユリウスは床に座り込んだ。どこか呆然として見える。燃え立つ火の色の髪を掻き揚げて、深く溜息をつく。 「さっさと殺しておけばよいものを・・・・」 言葉の末尾は声がかすれた。それ以上口にすることが出来ず、ユリウスは歯を食いしばった。笑いともとれる喉奥からの声はやがて嗚咽に変わり、涙がユリウスの膝を濡らした。 母を愛したことはなかった。あれは頼ることしか知らない、愚かな女だ。ユリアに愛を注いでいたのは知っていたが、ユリウスにその愛が向けられたことはない。 父を愛したこともなかった。愛されることも知らない、ただの愚かな男。その後半生は、女の愛を得るために仕出かした数々の罪の償いに費やされた。自分を見てもいない女に愛されるために、自分の魂を差し出したのだ。あの男は人の愛しかたなど知らない。 ユリウスの心の中で、遠い記憶が甦る。 あの幼い少年の日々、自分を最も理解し、自分を最も愛してくれたのは、今ここに生ける人形となって横たわっているユリアだった。 ロプトウスとなったとき、そうしたものとは訣別したはずだった。ロプトウスは人ではない。愛や思い出など、神には不要のものだった。 それでも時折、あのころの感情が胸に甦ってくることはある。 それは危険な感情だった。ユリウスを神から人間の方へ押し流し、神性を失わせる。 ユリアが、ユリウスという人間の最後の絆。光神ナーガの娘ではなく、血を分けた肉親として唯一愛を注ぐ対象。 だからこそ、丹念にその感情を抑えておく必要がある。ユリアを殺したいのはそのためだった。ロプトを凌駕するナーガの末裔であるという以上に、ユリウスがロプトウスとして存在することの妨げとなる。 だからこそ、自らの手で殺すのを躊躇われる唯一の相手でもあった。ユリアを殺せば、ロプトウスを留めるものはもう何もない。それは当のユリウスにさえ恐ろしいことだった。愛する対象を殺して、完全無欠の神になるなどとは。 「よい」 しばしの沈黙の後、ユリウスは独り、こう漏らした。 「ユリア」 優しいとも取れる声で妹に呼びかける。 「おまえはセリスを倒しに行け。おまえに強力な魔道書を与えてやる」 命令を理解したのか、傍らでユリアがゆっくりと起き上がった。引き裂かれた服が動いて、小さな乳房から陰部までがすべて露になる。ユリウスは羽織っていたマントを肩から外して、妹の背にかけてやった。 「することはわかっているな?」 ユリアの両肩に手をかけて、耳元でそっと囁く。 「・・・・コロス・・」 ユリアが呟いた。 「そうだ」 ユリウスは満足の笑みを漏らす。 「あのディアドラの息子、俺たちの兄を血祭に上げて来い」 セリスがこのユリアに倒されるならそれも良い。だが、その逆もありうる。 セリスの器がそう大きくなければ、ナーガの必要性に重きを置かず、ユリアを返り討ちにしてしまうかもしれない。 ユリアが死ねば、一つの目的は果たされる。ユリウスは優しくユリアを抱き締めた。 「この俺のために戦え」 セリスがユリアを殺さず、ユリアが正気に戻っても。 「ユリウス様ニ逆ラウ者・・・・・コロス・・・」 それはそれで、一つの目的が果たされる。 翌朝、霧の立ち込めるバーハラ平原に、ユリアはたった一人で送り出された。 「ユリウス様ノ敵・・・殺ス」 少女は呟きながら霧の中へ姿を消してゆく。 城門に佇むユリウスが、それを長いこと見送っていた。 |
| (了) |
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