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| 雷花 |
| 762年 春 |
春の来訪を告げる霧雨が、それでも冷たく人々に降りかかる。 山々の北斜面に未だ根雪が残る、北国の五月初め。 都を脱出するシレジアの市民に混じって、ティルテュはぬかるむ道を歩きつづけた。左手に乳飲み子のティニーを抱え、右手でアーサーの手を引いている。今年四歳になるアーサーはただならぬ雰囲気を幼いながらに感じとっているらしく、疲れているはずなのに母親に黙々と手を引かれるまま、文句も言わず小一時間も歩きつづけている。 指揮官を謀略で失ったシグルド軍の残党は、離散したものの大半はシレジア王国に逃げ延びて、再起を図った。シグルド軍への恩顧とグランベルの各国侵攻の不安から、シレジア国家はシグルド軍残党を快く迎えたが、しかし僅か一年の後に、シレジアはその代償を支払うこととなった。山々の雪解けを待ちかねたようにグランベル軍はシレジアを侵攻し、年来の内乱で国力の低下していたシレジア王国は領内深く王都まで攻め込まれ、陥落した。女王は王城と命運を共にし、実子であるシレジア王子は消息不明、グランベルを迎え撃ったシグルド軍残党はことごとく掃討された。 ティルテュは寡婦であった。彼女の夫は一年と少し前、グランベルからの脱出の際、追撃する敵軍を払う殿(しんがり)の役を買って出て、そして戻ってこなかった。ティルテュはシレジア王族の援助は受けたものの、たった一人で一年間も二人の子供を育ててきたのである。誰も頼りにはできなかった。彼女の生家は夫レックスの一族と同じく、自らの野心の為にシグルド軍を敵に回したのだった。 突然人並みの前方で、騒ぎが起きた。避難する一人々の列の中心に、グランベルの騎兵隊がなだれ込んできていた。悲鳴と喚声、馬の嘶きと鎧を鳴らす音がして、血しぶきが雨の中に舞った。人々が災厄を避けようと、散り散りに逃げ出す。ティルテュも人にもみくちゃにされながら向きを変えようとしたが、どうかするとアーサーの手が離れてしまいそうになってうまくいかなかった。 だが見る間に周囲の人影は減った。急に見通しの良くなった街道の行く手に、泥の中に倒れ臥す数人の市民と、騎馬に跨った騎士数名がいる。騎士たちは明らかに殺戮に酔っていた。逃げ遅れた市民たちに次々に剣や槍を突き立てている。ティルテュは踵を返し、アーサーの手を引いて走り逃れようとしたが、やがて数歩も行かぬうちに背後に蹄の音が大きく迫った。 「アーサー、離れて!」 今は仕方がない。ティルテュは息子の手を振り切るように離し、転ばぬ程度に突き飛ばすと、騎士達と向き直った。右手を掲げ、魔力発動の構えをとる。 「止まらず走りなさい!」 躊躇するアーサーに鋭く命じ、続いてごく短い詠唱の後、ティルテュの右手から雷が放たれた。槍を振りかぶり、今にも自分に投じようとしていた直近の騎士が、くぐもった声を上げて馬上から転落する。そのまま彼女の傍を走り抜けた騎馬の腹の飾り帯には、雷鳴を象った紋章が大きく刺繍されていた。 フリージに属する騎士たちか。 一瞬ティルテュの気持ちが鈍った、その紋章は彼女の生家のものだったから。だがすぐに、今まで以上に力をこめて次の雷を手から放った。ほんの数年前まではこの紋章の騎士たちにかしずかれていた自分ではあるが、今は自分はフリージを抜けた身、しかも眼前の騎士にとっては逃げ惑うシレジアの一市民に過ぎない。いやかつて縁故のあった者であるからこそ、ティルテュの怒りは倍増した。 「グランベルの西辺を護る雷騎士の身でありながら、無抵抗な市民を猟獣のように屠るなど!」 ティルテュの瞳が燃えた。力に任せて続けざまに二度雷鳴を放った後、いきなり後背から逆手の槍を受けて地に倒れ臥した。 背を打たれた激痛と衝撃の中で、それでも腕に抱いたティニーを庇うことは忘れなかった。そのぶん態勢を立て直すのは遅れた。泥にまみれた彼女が空を振り仰いだとき、そこには二人ほどの敵兵の頭があって、すぐにティルテュに掴みかかってきた。 ティニーの為に、抵抗も躊躇われた。ティルテュの弱気を見て取って兵士達は彼女を土の上に押し倒し、衣服を乱暴に剥ぎ取りながら、その手からティニーを奪った。 「やめて!」 ティルテュの口から懇願の悲鳴が漏れた、兵士に組み敷かれた自分のためではなく、ティニーを奪った騎士が娘を投げ捨てようとしていたからだ。兵士は笑って、嘲るようにティニーの体を二、三度揺すり、今しも遠くへ放ろうとした。 「止せ。そのご婦人が誰だか分からぬか」 突如として馬上から放たれた声に、騎士たちは硬直した。彼らの直属の上司だろう、騎士隊長の徽章をつけた騎士がこちらを見ていた。唖然とする騎士達の手を振り払ってティルテュはティニーを取り返し、腕の中に抱え込んだ。服を破り取られほぼ半裸の状態で、手負いの雌狼のように敵兵たちを睨みつけた。 「行方知れずだったご当家の娘御だ」 ティルテュは視線をめぐらしてアーサーの行方を確かめた。自分達を遠巻きにして、あるいは逃れあるいはことの推移を見守っているシレジア人たちの人波の中に、ひときわ目立つ銀の髪の少年が、僧服を着た女性に腕を引っ張られて連れられてゆくのが目に入った。名を呼んでとどめたかったが、善意でアーサーを連れ去ろうとするシレジア人女性に迷惑がかかる。アーサーを手元に置いたところで、命が助かる補償もない。ためらううちに息子の姿は人波の中に消えて、見えなくなってしまった。 「ティルテュ公女」 馬を下りた騎士隊長が一見恭しく、剥き出しで泥だらけのティルテュの肩の上に自分のマントをかける。 「我らと共に来て頂く。部下の非礼は赦されよ。故レプトール公は貴女を亡き者にしようとお考えだったが、フリージを継いだブルーム公は、長らく貴女の行方を探しておられた」 座り込むティルテュの前に膝をついて臣下の礼を取りながら、それでも彼女が逃げ出さぬように警戒を怠ってはいない。 「フリージへお戻りを。貴女が望むならばその乳飲み子も一緒に」 ティルテュはティニーを固く抱きしめた。 「これは私の娘です」 「心得ました。ブルーム公の姪御としてお扱いする」 ティルテュは答えなかった。アーサーを失った。彼が手元に戻ってくることはもうないだろう。自分が自由の身になることももうないだろう。フリージの当主となった今、兄ブルームが自分を手放すことは絶対に有り得なかった。 レックスの言葉が頭の中をこだまする。 「生まれた子は俺たちの子だ。ドズルにもフリージにも渡したくはない」 ごめんね、レックス、と口の中で呟いた。アーサーを見失い、自分とティニーはフリージに連れ戻される。ドズルとフリージがともに策略でシグルド公子をグランベルから失脚させた時、彼らには決して与しないと二人で誓ったはずなのに。 騎士隊長に促されるままに、ティルテュは立って、彼の騎馬に跨った。たった一つの拠りどころであるティニーを、腕に固く抱いたまま。 「ずいぶん痩せたな」 優しげな兄の口調に、ティルテュは心を動かされなかった。シレジアで囚われの身になってから一週間。グランベル本国に送られ、ティルテュはついにフリージの正嫡、実兄ブルームのもとに連れ出された。人質と云うことなのだろうか、ティニーはブルームに会う直前に取り上げられてしまった。服はティニー共々貴族にふさわしいものを与えられ、髪もかしずく侍女たちの手によって綺麗に編み上げられ、飾られていたがそれでも、半年に及ぶ逃亡生活の労苦を拭い去ることはできないようだった。 「おまえが家を出たときは本当に驚いた。クロード神父などに誑かされて無断でシグルド軍に参加したあげく、最後まで父上に楯つくなんて」 ブルームの手がティルテュの顎に触れようとする。嫌悪をこらえきれず、ティルテュは後じさった。 「触らないで」 ブルームは傷ついたような表情を見せた。 「やれやれ、ずいぶんな挨拶だな。おまえを連れ戻すために、ダナンやアルヴィス卿にまで頭を下げて頼み込んできたのに」 「私は帰ってきたくなんかなかったわ。私をむりやり捕まえてきて、感謝されるなんて思わないで」 「馬鹿を云いなさい。グランベルを離れて、なんで生きていけるものか。こんな大国に反旗を翻して、生きていくことなんてできるわけがないじゃないか」 気の弱い、妻にさえ尻をしかれっ放しの兄。レプトールの生前は当然、父の云うなりだった。「長いものに巻かれたがるのは、あいかわらずなのね」 兄の顔色が変わった。 「今の領主は私だ。私には、領国を護る義務がある」 きれい事と本音を分けることもできないの。そう言おうとした矢先、ブルームがティルテュの腕を掴んだ。 「まったくけしからん娘だ。以前はそんなことを云う子じゃなかったのに。おまえは変わってしまったな」 ブルームの目に宿るねっとりとした劣情に、ティルテュは怖気をふるった。 「離して」 「あの赤子の父親は誰だ」 「お兄さまには関係ないでしょ」 ブルームはティルテュの二の腕を両手で掴み、動きを封じている。 「関係ないなどとということがあるものか」 声は穏やかだが、目には強い嫉妬が宿る。 「知っているぞ。ドズルのレックス公子だろう」 ティルテュは黙りこくった。 「世が世なら二大権勢家の結束としてもてはやされるものを。父親と母親が二人して謀反人であるために、あの赤子は生涯日陰者の私生児扱いだ」 「べつにフリージやドズルに認知してもらわなくてもいいわ」 ティルテュは言い張ったが、その虚勢もここまでだった。 「あの娘を、フリージの名を汚す鬼子として、縊り殺すこともできるのだぞ」 ティルテュは言葉も失って兄を見つめた。恐怖に目が見開かれる。 全身から力が抜けていくのをティルテュは自覚した。 ブルームは妹のふらつく体を支え、抱き留める。 耳元で囁き声が聞こえる。 「だが出所のきちんとした貴族の子女として育ててやることもできる。私の息子娘と同じように、贅と教育を施してもやれる。どちらを選ぶかはおまえ次第だ。私が決めることではない」 甘やかな猫なで声。機嫌を取るような、それでいて脅迫をともなった命令。 ティルテュがフリージを出てクロードのあとを追いかけたのは、この声から逃れるためだったのに。 ブルームの手がゆっくりと背を這った。ティルテュの首筋に鳥肌が立った。兄の手を振り払って逃げ出したいのを、理性で必死に押さえつけた。 「心は決まったか?」 ブルームが微笑んで、顔を近づけてくる。 ティルテュは無言でうなずいた。他に選択肢はなかった。 ティルテュの体を支える手が服から差し入れられ、唇が首筋を這う。ティルテュは硬直したまま、あらがわなかった。ブルームの手がなすがままにまかせ、ゆっくりと床の上に体を横たえる。 ブルームの口がティルテュの唇を捕らえた。 (あんたなんかだいっきらい!) 頭の中で、そのフレーズががんがんと鳴り響く。 叫び声をあげたいのをこらえて口を開き、ブルームの舌を受け入れた。 目は強く閉じたまま。 そうすれば、これから起こることを消し去ることができるとでも云うように。 屈辱に熱を帯びた頬を、大粒の涙が幾度も転がり落ちた。 ティニーは下を向いて、手の中のペンダントをもてあそんでいた。 兄と名乗った男が、彼女の傍らでその動作を見守っている。 「お母様は不幸な方だったわ」 彼女はそれきり黙り込んだ。 いつも明るく振る舞っていたが、夜は涙にくれていることが多かった。義姉のヒルダには疎まれ、あからさまに敵意を持たれていた。 それがなぜなのか、いまのティニーには理解できる。 目を上げて、兄を見た。シレジアで育った魔道士。鼻筋と眉のあたりに、たしかに母の面影がある。 母がどんな生活をしてきたか、アーサーに告げることはあるまい。自分を助けるためにどんなことの犠牲になったか、誰にも言うことはあるまい。私はこの秘密を連れて墓に入る。 だから母の歴史は護られる。 ティニーは目を閉じて、深い息を一つ吐いた。 フリージの家を出て、自由になる。それは母が私に望んだことであるはずだ。 ばさりと羽音がして、周囲に羽が舞った。見上げると、自分と同い年ぐらいの天馬騎士が上空に待機している。 「アーサー、敵の援軍が来るわよ!」 緊張してはいるが、快活な声。アーサーは空を見上げて微笑んだ。 「行こう」 アーサーが手を伸ばしてくる。 それに応えるように差し出したティニーの手は、震えていた。 アーサーは笑って、安心させるように言った。 「大丈夫だ。怖いことは何もないよ。僕がついてる」 ティニーは兄の手を強く握った。返す微笑みはまだ、弱々しくて不安げではあったけれど。 おかあさま、ありがとう。 頬に涙が光った。 ティニーは兄と連れだって、ブルーム達の篭もるアルスター城とは逆の方向へ歩き出した。 手には形見のペンダントを握ったまま。 後ろも振り返らずに。 力強い足取りで。 |
| (了) |
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