神舞の姫
764年 初夏

 




 トラキア国王トラバントが雷帝ブルームと和睦し、トラキア半島に表面上は平穏が訪れたからといって、トラキア王国は相変わらず貧しいままだった。
 トラバント王を始めとする各族長は今まで通り武力を最大の強みとし、傭兵部隊としてグランベル世界を渡り歩いた。ハンニバルも竜を降りる以前は、そうしてグランベル大陸のあちこちの戦場を巡ったものである。
 新皇帝アルヴィスの統治のもと、グランベル帝国は武断的な法治国家として全大陸に影響力を及ぼし、同時にゆるやかに、だが着実に宗教規制が行われだした。謀反人シグルド公子に荷担したとされるエッダ教団の指導者クロード神父が処刑されて後、大陸に多く散在していたエッダ派の教会はすべて宗旨変えすることを強制され、影響力を失っていった。なかには教会の十字看板を外し、アルヴィス帝が暗黙に庇護しているロプト教のシンボルに堂々と付け替えたところも多くあったと聞く。
 クロード神父はほんの数年前までは徳の高い聖人だったのだが、シグルド公子の側に引き入れられてのち、卑しい育ちの異母妹と情を通じ、その娘に誑かされて人生を狂わされたという。怪しげな舞術と淫奔な心を持ち、「妖姫」「魔女」と呼ばれたその娘は、バーハラ平原の戦いのときにクロードを見捨てて逃げ出し、今に至るまで行方は杳として知れない。
 騎士の国ノディオンを平定してグランベルの帝都バーハラで労をねぎらわれるハンニバルの耳に入るのは、そうしたシグルド軍残党の噂ばかりだった。宮廷の一角で、安酒場の片隅で、まことしやかな悪評と彼らにかけられた賞金首の額、そして誰それがどこそこに潜伏しているといったあてにならぬ情報が、無数の金銭と共にやり取りされた。
「作為のにおいがするな」
 傭兵の将はそれだけ呟いて、あとは無関心を決め込んだ。敬愛するトラバント王のように、突出した政治感覚を持つわけではないが、アルヴィス皇帝が自分の政敵シグルド公子を謀略で葬ったことぐらいは容易に想像がつく。シグルド軍の悪評を立てるよう仕向けているのはアルヴィス皇帝かその側近で、残党狩りや密告を裏で奨励しているのも同じ連中だということは、貴族という人種を知っていれば誰にでも理解できた。
「私は宮廷など性に合わんのだ……」
 トラキア王国に宮廷はない。複数部族が集合して一つの王国を形作るトラキアは、その政治形態が「原始的」で、貴族主義が台頭するゆとりがないのだそうだ。それを言ったのはブルーム配下の地方領主で、バーハラの一貴族の館で設けられた夜宴の席で、勿体ぶってハンニバルに語り聞かせてくれたのだった。ハンニバルは酔ったふりをしてそいつの顎に一発見舞ってやった。周囲からは歓声が上がった。トラキア傭兵連中からはおおっぴらに、グランベル貴族たちの間からはしぶしぶといった体で。
 酔いを理由にその館を辞すと、彼は憂鬱を抑えかねたかのように、城下町に足を運んだ。トラキアの男たちが仕事を領土の外に求めるように、トラキアの女たちも貧しさを抜け出すために国を出る。そうした女たちの流れ着く先は歓楽街と決まっていて、ここグランベルの城下でも、酒場や娼婦宿はトラキア訛りが多く飛び交っていた。
 戦場では勇猛な将を演じねばならぬ。それは人を信ずればたやすく謀略に飲み込まれる貴族の世界においても同じであった。そしてそのような人物を演じつづけることが、ハンニバルには次第に困難になりつつあった。あと一年で、四十の齢に手が届く。五十まで長生きする者は稀な時代にあって、彼の年齢はそろそろ老いを意識する時期に来ていた。
 酒場に足を運んでトラキア方言の女たちと冗談を交わしでもすれば、あるいは気が晴れるかもしれない。その考えが正しくないことを知りつつ、ハンニバルは大きめの酒場の一つに足を踏み入れた。
 その酒場はちょうど、中央の舞台で一人の踊子が舞っている最中だった。
 目の前で色彩が乱舞する。緋、紅、オレンジ。舞台の上で舞うのは、今が花盛りの小柄な女だ。細い体に不思議なまでの活力が宿る。体につけた無数の鈴が激しく鳴り響き、見る者を陶然とさせる。
 その娘がトラキア人ではないことは一見してすぐわかった。トラキア人は男女ともに概して大柄で、顔立ちも荒削りである。対する踊子は小作りな顔立ちに華奢な体つき、肌は灯火を反射して蜜の色に輝き、決して色白ではないことを知らせていた。舞踏の伴奏はシレジアの趣を感じさせるが、娘の踊りはシレジア流と呼ぶには熱気がありすぎた。観客たちは手拍子も打てぬほど彼女の踊りに釣り込まれ、我を忘れて見入っている。
 その娘が、グランベル城下で当代一の踊り手と謳われていると、後になってハンニバルは聞いた。

 舞が終わると、観客が一斉に金や花を舞台に投げる。踊子は大した執着もなさそうに、それでもそれらを拾い上げていった。
 せいぜい銅貨が散らばる程度の舞台の上に、ひときわ重そうな小さな皮袋が投げられた。それは舞台の上で跳ね返って袋の口が緩み、中から純正のアズムール金貨が一枚転がり出た。
 観客の視線がそれに集まる。市民たちには、金貨などはそうそうお目にかかれる代物ではない。踊子はその袋を拾い上げて、舞台の上から人々を見回した。
「誰がこれを投げたの?」
 声色は意外に幼げだった。先ほどの、神が降りたかと思わせるような舞踏とは対照的なその声が、シンとなった酒場の壁の中を響きまわる。
「だれ?」
 踊子の眼差しが心もち鋭くなる。ハンニバルは観念して手を上げた。
「私だ」
 人垣が割れて、ハンニバルの姿は自然と踊子の前に露になった。
「トラキアの傭兵だ」
「ハンニバル将軍だ」
 小さなささやき声が群衆の間から漏れる。
 踊子は舞台から軽々と飛び降りて、つかつかと歩み寄った。
「これはお返しするわ」
 驚きの溜息が人々の口から漏れる。
「こんなに高価なものを貰うのに見合うほどの芸はしてません」
 大柄なハンニバルと比べると娘の身長はまるで子供のように見えた。年齢にも親子といってよいほどの開きがある。それでも娘は、顎をぐいと上げてハンニバルを正面から見つめていた。黒い瞳はわずかに緑の輝きを帯びる。
「私の気持ちだ。おまえの踊りに感心して、その気持ちを素直に金銭で表しただけだ。他意はない」
 踊子は首を振ってハンニバルの手に皮袋を押し戻した。
「過ぎた施しは芸人の腕を鈍らせるって諺があるの。だからこれは受け取らないわ」
「一枚もか」
「ええ。金貨一枚だって多すぎるわ」
「だが他に手持ちがない」
 ハンニバルは困ったように言った。きつい口調とは裏腹に娘の雰囲気は人懐こく、ハンニバルは彼女に魅了されてしまっていた。
「貰ったところで」
 ふっと娘の表情が崩れる。香水の匂いがハンニバルの鼻をくすぐった。
「店を一歩出た途端に襲われて獲られちゃうのがオチよ。金貨なんて。・・・・私の踊り、そんなによかった?」
「ああ。沈んだ気持ちが明るくなった」
「そう。よかったね。そう言ってもらえるのが一番嬉しいの。だからお代はなしでいいわよ」
 娘はきゃらきゃらと笑った。花が咲いたようだ。王宮の温室で丹精こめて咲かせた花ではなく、民家の壁に逞しく取り付いてそれでも美しく咲き誇る花。
「おまえはどこの出身だ」
「グランベル」
 踊り子は即答した。
「詳しいことはわからないけど、多分ね。売られたのはヴェルダンでだったけど。踊りを仕込まれて、あちこちを旅するうちに、今は故郷に舞い戻ってきたわけ」
 腕に巻きつけた布をひらひらさせて、娘は屈託なく笑った。
「名前は?」
「ルヴィ」
「なるほど」
 この娘を口説いて寝床に連れ込めたら。
 そう考えている自分に気づいて、ハンニバルは驚いた。つい先ほどまで、自分は老いたと陰鬱に沈んでいたのに。
「兵隊さんは名前、何ていうの?」
 娘は明るく尋ねた。

 ルヴィは奔放だが、淫蕩な感じはしなかった。
 いつしか彼は、諸国で仕事を済ませバーハラに立ち寄るたび、彼女を訪れて夜を過ごすようになっていった。夜を重ねるたび、後腐れなく見送る彼女のやり方が、ハンニバルは気に入った。踊り手と娼婦を兼ねる娘たちは多いし、ルヴィも間違いなくそうした娘たちのうちの一人だった。身体を重ねて金銭を貰うことに抵抗はなく、しかしそうした女たちの大抵が持っている投げやりな雰囲気や荒れた精神というものとは、ルヴィは縁が薄そうに見えた。
「そんなことないよぉ」
 寝台の上に裸で寝転んだまま、ルヴィは笑った。
「辛いこと、いっぱいあったよ。今でもね。でもそれはたぶん、誰でもみんなそうなの。笑って隠すか、隠さず人に見せておくかの違いだけよ」
 ハンニバルは娼婦としてではなく、愛人のようにルヴィを扱った。彼が贈る装身具はたいてい一夜の代金としては高価に過ぎ、始めは抵抗感を示したルヴィも、ついには黙ってそれを受け取るようになった。行為のあと、丁寧にルヴィの手に接吻をしたところ、彼女はきゃらきゃらと笑った。
「おっかしーい。なんでそんなことするの?」
 ルヴィの瞳には、からかいと親しみがこもっていた。
「惚れた女には、誰でも慈しみを持つ」
 ハンニバルは照れもせずにそう答えた。ルヴィは真面目な顔になって寝台の上に起き上がり、彼をじっと見つめた。
「私の何を知ってるわけでもないのに、私に惚れたって言うの?」
 不信というよりは気遣う口調が、ハンニバルの耳に残った。
「お前の一部を知っている。私にはそれで十分だ」
 ハンニバルの返答に迷いはない。
「・・・そう」
 ルヴィの瞳が挑戦的に光った。
「じゃあ」
 ルヴィが持ち掛ける。
「私をトラキアに連れて帰って妾にしてって頼んだら、考えてくれるの?」
 冗談を装っていたが、剣呑な調子を完全に押さえることには失敗していた。ハンニバルはルヴィの黒い瞳をじっと見つめ、こう答えた。
「お前が心からそれを望むなら、きょう明日にでも連れ帰る」
 ルヴィは目に見えて鼻白んだ。
 息を呑んで、しばらく沈黙する。
「おまえが望むならだ。無理じいはしない」
 ハンニバルはいたわるようにつけたした。ルヴィは青ざめた顔で、下を向いている。
「ルヴィ」
 ハンニバルは彼女の背を抱こうとした。だが思ったとおり、ルヴィは彼の手を振り払った。
「・・・ごめんね。ただの冗談。今日はもう帰って」
 身体を硬くして、それだけをやっと口にする。
 ハンニバルは素直に彼女に従った
 宿から帰る道々、ハンニバルは自分の結婚生活を反芻した。
 彼には妻はいない。三人目の妻を病で亡くしてから、ずっと独り身を通している。初めて結婚した妻とは四年間しか続かなかった。子供が産まれないことをハンニバルのせいにして、その女は彼をなじり、彼と別れた後別の男の子を孕んだ。二人目の妻は初産で失敗し、母子共に生き残ることができなかった。三人目の妻が死産・流産を繰り返し、ついに子を宿したまま流行り病で死んだとき、ハンニバルは、自分は子を持たぬ定めにあると諦めるよりほかなかった。子を諦めると同時に、新しい妻を持ちたいという気持ちも失ってしまった。よい年をした男が寡でいるものでもないと、友人親戚が数多く縁談を持ちかけたが、ハンニバルはそのどれにもすげない返事を返してきた。幾人か恋人を持ったりもしたが、大して長続きはしなかった。
 ルヴィをトラキアに連れてゆくことに依存はない。ハンニバルのほうは、である。問題はむしろルヴィの心だった。ハンニバルに完全に心を赦しているのではないということは、彼女が自分の過去を明らかにしないことではっきりわかっていた。ルヴィには謎が多い。その謎もひっくるめて、ハンニバルは彼女に惹かれていたのだ。
「いったい過去に、どんな悪いことをしてきたのやら」
 彼女の心が自分の上にないことくらいは解っている。過去にただひとり、心から愛した男がいるとは聞いていた。その男がグランベル人で、彼の子供を二人産んだということも。
 いつだったかその話題が出たときに、ハンニバルは尋ねたものだった。
「子供たちはどうしている」
 均整の取れた肢体を惜しげもなく朝日にさらして、ルヴィはこう答えたものだった。
「いないわ」
「死んだのか?」
「ううん。でも私にとっては、死んだも一緒。・・・むしろ殺したのと一緒かも」
「どういうことだ?」
 ルヴィの瞳が遠くを彷徨う。
「捨てたの」
 ハンニバルは表情を測ろうと、彼女の横顔を見つめた。小作りの顔だちが自嘲に歪んでいた。「捨てたの。二人とも。私が生きるのに邪魔だったから。今ごろ何処でどうしているのか、見当もつかない」
 柔らかな頬を、涙の筋が伝う。
「私が探し出して、養ってやってもいい」
 本気の言葉ではなく、好いた女を慰めるために、彼は安易な嘘をついた。
 ルヴィは彼のほうを向いて優しく微笑んだだけで、何も言わなかった。もちろん何もかも見通していたからに違いない。その表情は美しく、神々しいとさえ言えた。
 ルヴィはトラキアへは行きたがるまい。愛した男の故郷だから、グランベルに留まり、見知らぬ男の腕に抱かれもするのだ。ハンニバルにああ言ったのは彼の心を意地悪く試しただけで、決して本心ではない。
 もう彼女のもとへ通うのはやめよう。そう、ハンニバルは思った。親子ほども年の離れた娘と愛人ごっこの気分に浸ることはできても、じっさいに所帯を持つことなどできはしないのだ。自分を必要としない女を囲っても、誰のためにもならぬではないか。ハンニバルは沈んだ気分で自らをあざけった。
「思った以上に、入れ込んでいたのだな」
 自分が傷ついているということが、一方でハンニバルは新鮮だった。まだ女を愛せるということが。ルヴィと切れるのは寂しくはあったが、そもそもそう頻繁に顔を合わせていた間柄ではない。ひと月に一、二度、数日間ほどの逢瀬を持つだけの関係だ。自分が消えたところで、彼女が傷つくということもあるまい。性に冷めたところのあるハンニバルは、ルヴィに会うことをすっぱり切り捨てて、そしてそのまま、彼女のもとへ訪れるのをやめてしまった。ただ自分の良心に応じるために、贈り物だけは、トラキアからグランベルから、人をやってたびたび渡し続けた。ルヴィは使者の口伝てに、自分には過ぎた待遇だと始めは言って寄越してきたが、ハンニバルは物の質を若干下げて、それでも物を贈りつづけた。そうしたまま季節が過ぎ、いつしか、ルヴィもハンニバルから物を贈られることに抵抗を感じなくなってしまったようだった。

 転機はある冬の朝に訪れた。
 ハンニバルはそのとき、所用があって、グランベルのトラキア大使館に身を置いていた。
 いつものように、数週間に一度の贈り物を携えてルヴィのいる店に向かったハンニバルの従者が、その日に限って、ハンニバルが渡した品をそのまま持ち帰ってきた。物言いたげに自分の前に佇む従者を見て、ハンニバルは何かが起きたことを察した。
「いらっしゃいませんでした」
 従者は自分自身も腑に落ちぬような顔でそう告げた。
「十日前に、忽然と姿を消してしまわれたようです。何でも」
 言ってよいものかどうかためらう気配があって、
「そのすぐ翌日に、その宿にグランベル兵が踏み込んだようです。シグルド公子に加担した謀反人探しという触れ込みで、小柄な黒髪の女を捜していると」
 従者の目には、はっきりと主人を牽制するようなまなざしが宿っていた。あなたの関わった女は後ろ暗いところがありますよと、その目の光が告げていた。
 ハンニバルの頭の中で、閃くものがあった。
 小柄な黒髪の女。舞の達者。シグルド公子の残党。ルヴィという名前。
「妖姫シルヴィアか……」
 クロード公の異母妹にして愛人。彼を惑わし、子まで成しておきながら、彼の死に際に見捨てて逃げたという噂の娘。
 ハンニバルには、真実を確かめるすべはない。彼女を守る手立ても。
 彼女が自分を頼り、自分のもとへ現れない限りは。
「いかがいたします?」
 従者が決断を促す。そんな危険な女とは縁を切ると、主人に言って欲しがっていることは明白だった。
「探せ」
「は?」
「ルヴィを探せ。金に糸目はつけん。グランベル軍より先に見つけ出せ。奴らに気取られぬように動け。私だということがわからんようにな」
「それは………」
「彼女を見つけたら匿え。グランベル軍に引き渡すことはならん」
 自分が愚かしいことをしているという自覚はあった。政治人としては。それがどうした、とハンニバルはその考えを払いのけた。自分はあの娘に惹かれているのだ。彼女は決して悪女ではなく、叛意を持ってもいない。そう感じた自分の直感のほうが、グランベルの噂話などよりよほど頼りにできるはずだった。
 今ならまだ、彼女を救うことができる。彼はそう思っていた。
 だがそれは甘い考えだったと、すぐに思い知ることになる。


 帝国兵を買収してようやっとルヴィの目の前に立ったとき、ハンニバルは己の不明を悔やんだ。
「誰」
 誰何の声にもかつて聞き慣れていた張りがなく、くぐもって聞こえる。暗い地下牢の一室で、自分の顔がわからぬのかと目の前に明かりを掲げて見て、ハンニバルは目を疑った。
 彼が見知った美しい女は見る影もなかった。顔は青黒く腫れ上がり、膨れた瞼が左目を隠している。四肢にも殴られた跡の痣が残る。
「ルヴィ・・・・」
 思わずあげたその声に、女の方が気がついた。
「ハンニバル将軍?」
「そうだ」
 女は怯えたように後じさった。だがすぐに足に繋がれた鉄鎖が伸びきり、動きを絶たれた。露わになった股の間に黒くこびりついた血が、ハンニバルを逆上させた。
「奴らに何をされた」
 ハンニバルは語気も荒くルヴィの左腕を掴んだ。ルヴィが鋭い叫び声をあげる。肩を痛めていることに初めて気づいた。
「シルヴィア」
 ハンニバルにとって聞き慣れぬ、娘の本名を口にした。一瞬女は体を固くして、
「気がついちゃったのね・・・・」
 その声音は、恐ろしいほど以前と変わらなかった。悲しい深みを持ちながらも明るく屈託なく聞こえる、優しい声。その声で、幾人の男が陶然としたことだろう。ハンニバルは思わず彼女を引き寄せて、抱き締めた。彼女が痛い思いをしないよう、力は抜いたまま。
「なぜ私に言わなかった!いつでもトラキアに連れ去ったものを!」
 トラキアの自分の屋敷でなら、安全に匿いきることができたはずだ。グランベルの兵などに身を汚されることなく。
「ごめんなさい」
 そう答えた、シルヴィアの語尾がわずかに震えた。
「あなたが敵か味方かわからなかったの。親切だし頼れると思ったけど、判断する勇気が持てなくて。馬鹿みたいね」
 シルヴィアを抱きかかえたまま、ハンニバルは必死に考えを巡らした。グランベルは規律に厳しく、罰則は重い。買収した帝国兵でさえハンニバルに槍を向けて身構えている。脱走に対する警戒であることは容易に知れた。自分が怪しげな動きをすれば、それがトラキアの将軍であろうとなかろうと、兵士は即座に槍を突くだろう。
「危険を冒して来てくれたのね。嬉しい」
 いっそ場違いとも思えるほどの明るさで、シルヴィアは言った。
「黙っていろ」
 殺気立ったハンニバルの声が、シルヴィアを制する。
 牢の中にハンニバルとシルヴィア、そしてグランベル兵が一人。牢の外で二人が、彼の一挙手一投足を見張っている。
 ハンニバルの腰には剣があった。トラキアの粋を集めた、銀製の柄の剣だ。
 ハンニバルは深い呼吸を一つして、体勢を整えると、いきなり鞘から抜刀した。兵士が応じる間もなく、手近な一人の首筋に叩き込んで絶命させる。
「ハンニバル!」
 ルヴィが呆気にとられて叫んだ。ハンニバルは頓着せず、牢の戸口に殺到する。外の兵士が慌てて扉を閉じようと駆け寄ったが、ハンニバルの方が一瞬早く辿り着き、二人の兵士の体を跳ね飛ばした。うち一人に向けて剣を振り下ろす。動転した最後の兵士が声を挙げて助けを呼ぼうとしたが、正確無比の一閃が喉仏を貫いた。
「ハンニバル、駄目よ!」
 ハンニバルはルヴィには答えず、彼女の足を縛める鉄鎖を一刀のもとに断ち切った。そのまま彼女の体を抱え、地上への階段を駆け上がる。
 真昼の陽光が、彼の目を射た。
 閉口しながらも、見えぬ目を凝らして頼るべき姿を探す。上空から、彼を呼ぶ声が起きた。
「ハンニバルさま!」
 竜騎士が、鞍をつけた飛竜を一騎従えて上空に待機していた。その者がまっすぐにハンニバルのもとに向かって降りてくる。ハンニバルは声を挙げてそれに答え、ルヴィの体を担いだまま空座の鞍に飛び乗った。
 事態に気づいたグランベル兵士達が走り寄ってくる頃には、ハンニバル達は上空に達していた。矢が一、二本流れてきたが、それも力のあるものではなかった。

「あなたって、凄いのね」
 ハンニバルの肩に寄りかかって、ルヴィが茫然と呟いた。
「こんなにしてくれるなんて思わなかった」
 飛竜に乗るのは初めてなのだろう。何となく腰が落ち着かぬふうを見せているが、ルヴィ自身はハンニバルを信じ切り、彼に身を任せていた。彼女を前に座らせ、その細い腰を抱きながら、彼は今更ながらにルヴィの華奢なことに驚きを感じていた。
「帝国にはもういられないわね」
「そのつもりだ」
 ルヴィの皮肉げな笑みに、ハンニバルはきまじめに答えた。
「もとよりここにとどまるつもりはない。トラキアでもレンスターでも、おまえが安全なところまで必ず送り届ける」
「将軍の地位を失うかもしれないのに?」
「おまえと共にいられるなら地位などどうでもかまわん」
 その言葉にルヴィは黙り込んだ。やがて、
「・・・・・あのひとにそう言って欲しかったのに・・・・・・」
 声がかすれ、震えた。前向きに座るルヴィの顔は、ハンニバルには伺えない。腰に回した手を、心持ち強く抱き締めた。
 ルヴィは語りだした。
「彼が悪いんじゃない。時代が悪かったの。私はあのひとを好きだったし、彼も私を好きでいてくれたけど、でも一緒にいることは許してくれなかった」
 説明の中に嗚咽が混じる。
「死ぬまでいっしょにいたかったのに、それをさせてはくれなかった」
「それほどおまえが大事だったのだ」
 ハンニバルはいたたまれず、助け船を出した。
「うん」
 少し間があって、
「それはわかってる。でもだから辛いの。あのひとは自分の地位を投げ出さず、そのくせ死んでしまった。あのひとがいなくなる以上の不幸なんて、あたしにはなかったのに」
 ルヴィが長く長く息を吐く。
「でも、しちゃったから。約束を。生きるって。生きて子供達を護るって」
「子供?」
「二人いるの。前も言ったと思うけど。娘のほうは、この間行ったら、もういなくなってた。別の孤児院に引き取られたのね。だからもう追えない。だけど息子は」
 ルヴィが顔を振り向けてハンニバルを見た。黒い瞳が涙で輝き、強い光を帯びている。
「あなたにしか頼めない。娘は護れなかった。息子は、あの子だけは、何があっても護らなくちゃ。私はこの為だけに生きてきた」
 小声だが力強い独白。
「ハンニバル」
 その響きは、今までのルヴィの声とはまるで違って聞こえた。重く強い、高貴を感じさせる有無を言わさぬ声色。
「ダーナへ行って。すぐでなくていい、なるべく早く。ダーナの東はずれの教会の神父と話をして。彼がすべてを伝えてくれる」
 この娘は真実ブラギの血を引いているのだ。ハンニバルは驚嘆した。
 着ている服は襤褸で、体もあちこちが傷ついている。だがそんなこととは全く関係なく、ルヴィは貴種の娘だった。何ものにも砕かれぬ固い意志を内包する、強い矜持に支えられた優しい心。
「約束しよう」
 たとえそれが己の死に直結していても、ハンニバルはその約束を遂行するだろう。
「よかった」
 シルヴィアの表情が柔らかく崩れた。

 バーハラとトラキアを結ぶ宿場町の宿で、シルヴィアは舞を舞った。
 教会の司祭に金を積んで杖を振らせた為、シルヴィアの体はだいぶ恢復している。だが本調子とは言い難い。
 体は利かずとも、錬磨された技と撓められた心は以前に劣らず、むしろ一層の気迫を放つ。
 ハンニバルがこれまで見た中でもっとも美しく、もっとも凄艶な舞だった。
 傷も包帯も、彼女の輝きを失わせることはできない。
 それがハンニバルにとって誇らしくもあり、また悲しくもあった。
 世が世なら、そんな悲愴とは無関係に、貴族の娘として生きていくことができたかも知れないのに。
 運命に翻弄され、それでも昂然と頭を上げて舞う神の娘。
 ハンニバルはその姿をしっかりと心に刻みつけた。

 翌朝、ハンニバルに当てた短い書き置きを残して、シルヴィアは姿を消した。
 書き置きには、拙い字で、
「だいすき。あのひとのつぎに」
 とあった。シグルド軍に参加した当初、彼女は文盲だったという。折れ釘を並べたような文字の列は、しかしそれでもシルヴィアの性格をあらわして、伸びやかに綴られていた。


 トラキアで、ハンニバルはシルヴィアの死を知った。
 ラドスの海から、彼女の遺体が上がったという。
 ラドス港の花街に潜んでいたところをグランベル兵に目撃され、逃れる途中で彼女を追って放たれた弓が、脇腹に当たった。シルヴィアはそれでも数百歩の距離を走り続け、橋の欄干を乗り越えて運河に飛びこんだ。
 グランベルの手に捕らえられることを怖れ、恐慌に陥って河に落ちたのか、自殺するつもりだったのかはわからない。一昼夜の捜索のあと、運河が河口を接するラドスの港湾で、波に漂う女の遺骸が見つかった。検分され、シルヴィア本人だと確定された骸は、罪人らしく灰にした上で処刑場に撒かれた。
 一度捕らえた娘を逃した挙句、再び捕まえることができずに死なせたという事実は、帝国の暗黒司祭マンフロイを激昂させた。グランベルでシルヴィアを監視していた兵士達が家族もろとも処刑され、ラドスでシルヴィアを見失った兵士数人がシレジア地方の辺境へ送られた。
 彼女の書き置きと、耳に残る彼女の言葉、そして目に焼きつけた舞姿だけがハンニバルには残された。ハンニバルの心に空洞を残してシルヴィアは去り、彼女の手紙を胸に握りしめながら、眠れぬ夜々をハンニバルは過ごした。

 数日後、ハンニバルは主君たるトラキア国王に王宮へ呼び出された。
「無骨者と噂のハンニバル将軍が、グランベルで罪人の女に絆されたと聞いたが」
 面白がるような、そして皮肉げな笑みを湛えてトラバント王は切り出した。自分の振舞が外交を通してトラキアに影を落としたことは、ハンニバルにも容易に知れた。
「今回はグランベルに尻尾を振る。おまえの将軍位を剥奪し、国外に追放する」
 国王は無造作に告げた。
「但し永遠にとは言わん。儂らは戦うのが仕事だし、それには有能な指揮官が不可欠だからな。よって期限は一年とする。一年後の今日、再び儂に会いに来い。それまではトラキアにとどまることはまかりならん」
 トラバントの思考は、ハンニバルにはすぐに察しがついた。グランベルの報復が陰湿な暗殺手段にすり替わりやすいことは、お互いよく承知している。ハンニバルをトラキアに留めておくほうが危険なのだ。今回のトラバントの処置は、ハンニバルを死なせないための思慮の結果であろう。
「ご厚情に感謝いたします」
 ハンニバルは素直に頭を下げた。
「うむ。言うのも妙なものだが達者で暮らせ」
 頭を下げたハンニバルの目線の先に、幼い少女の姿があった。トラバントの養女だ。どこぞのレンスター貴族の娘が、故あってトラバントに預けたのだという。少女がはにかみながら笑いかける。微笑みを返しつつ、ハンニバルは、少女の面差しに宿敵レンスターのキュアン王子の影を認めた。トラバントが挑戦的に投げかける視線をあえて黙殺し、ハンニバルはトラバントの館を辞した。


 ダーナの町外れの教会で、ハンニバルはシルヴィアが託したものを見つけた。
 ロプトの紋章を屋根に抱きながら、その教会の司祭は最後までハンニバルの来訪に抵抗した。ついには彼に槍を突きつけてまで教会奥に乗り込んだハンニバルは、その最奥の部屋に、金髪の赤子と一本の杖が隠されているのを知った。
 おまえが護りたかったものはこれか。
 赤子を抱き上げ、ハンニバルは思った。脇の下に強く輝く聖痕を見まがうべくもない。エッダの最高峰、クロード神父の直系の息子。実妹との間に成された、系譜を強く引き継ぐ聖戦士の生粋の末裔。
「ルヴィ」
 込められた思いを知ってハンニバルは涙した。
 彼女は子供を棄てたと言った。それは真実ではない。自分の追っ手から安全に子供を引き離すために、あえて教会に手放したのだ。ロプト教復興の地イードの膝元、ダーナの街で、ロプト派を偽装してエッダの教えを護り続ける肝の据わった司祭のもとに。自分の愛した男の息子と、その地位を象徴する再生の杖を。
 そして自分はあえてそこから遠く、目に付きやすいグランベルに住み着いた。自分とクロードの息子を護るために。娘もいると聞いたが、居場所を聞き漏らしたハンニバルにその生死を確かめる術はない。
 大人の思惑など何も知らぬ、よちよち歩きの赤子が、ハンニバルに抱き上げられて無心に微笑む。
「名は何という」
「圧制にあって黙することを潔しとしなかった、詩神コープルの名をいただきました」
「よい名だな。この赤子は儂が引き取る」
「それは・・・・」
 司祭は躊躇った。シルヴィアと同様、トラキアの将軍という立場のハンニバルが信頼に値するかどうか計りかねている。だが結局、ハンニバルに任せるしかないこともわかっていた。
 ブラギの直系の幼子を、偽装しているとはいえブラギの教会で育てるのは危険だからだ。
 ハンニバルは教会を去った。左手に赤子を、右手に聖杖バルキリーを抱えて。

 十年の後、コープルの名は、トラキアの大陸に知れ渡ることとなる。
 トラキア半島を統一したリーフ王の下で、多くの功績を残した文官として。
 また同時に、エッダ教会の権威を再興した神官としても。
 彼の功績によって生母シルヴィアの名誉も回復され、彼女は神舞の姫と呼ばれた。
 エッダ城の中枢に位置する教会の敷地に、彼女の墓がある。
 墓石の下に遺体はないが、すぐれた踊り手になることを望む芸人達がその場所を見舞い、人気が途絶えることはないという。
(了)
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