終焉
761年初夏

 






「ベオウルフ!」
 悲鳴にも似た恋人の呼び声に、ベオウルフは瞼を開いた。
 眼前に、豪奢な金の髪が広がる。それに縁取られた秀麗な顔は、今は驚愕と悲痛に歪んでいた。
 東方の蛮土、イザークの地で。
 ベオウルフは己の死が目前に迫ったのを悟った。
「ラケシス・・・・・」
 放とうとした声は、血の中に沈んだ。気道が肺からの血で塞がれている。反射的に咳き込み、空気を求めて体を動かそうとしたベオウルフだったが、肺腑をえぐられた痛みがいっそう募っただけだった。額に浮く脂汗がラケシスの髪を汚した。
「今、恢復をするわ」
 ラケシスが杖を手に取ろうとする。手遅れなのは誰の目から見ても明らかだ。声の出せないベオウルフは、黙って右手を挙げて、その動きを押しとどめた、つもりだった。だがそれは指先が動く程度のかすかな動きにしかならず、その動きにさえ激痛が伴った。口から血が泉のごとく溢れ出ている。
「無駄だ」
 ベオウルフの頭が、自らの意志によらず動いた。体の筋組織が音を立てて崩れていく。ベオウルフは夥しい血を吐き、それによってようやく空気を補うことができた。苦しさは変わらないが、喋ることはできる。
「ラケシス」
 苦しい息の下から、その名を呼んだ。
 彼が世界でもっとも愛する者の名だ。口の端にのぼせるのはこれが最後になろう。
 若草色の瞳が、抉るように見つめてくる。
 必死の視線。もはやベオウルフには届かない。
「頼む」
 ベオウルフの声は、そう、聞こえた。
 ラケシスの体に明らかな震えが走った。
 ベオウルフに必要なのはもはや杖ではなかった。苦しみを断ち切る、慈悲深い剣だ。ラケシスにはわかっていた。ベオウルフ自身も。だが頭で理解することと、行動を起こすこととは別の次元にある。ラケシスは言葉を失い、凝然とベオウルフを見た。
 敵の手になる一太刀は、ベオウルフの肋骨を粉砕し、肺腑から臓物にかけて切り裂いていた。地には、ベオウルフの血と共に腸が飛び出している。
 このようになった者の姿を、ベオウルフもラケシスも戦場で厭と云うほど見てきた。半日後に迫る死を待つばかりの、無惨な戦士達。何より残酷なのは、まだ生きているということだ。苦しみ喘ぎながら、死に神が魂を連れ去るまで身動きもできずにもがき続けるしかない。
 彼らにしてやれる唯一のことは、その死期を早めてやることだけだ。
 だが。
「・・・厭よ」
 茫然と、ラケシスは呟いた。
「貴方は私と一緒にアグストリアへ帰るの。ほかの道なんてありえない」
 怒りでもなく、嘆きでもなく。
 いっそ無表情と呼べるまでのその声音。
 だがほかに選択肢がないのを、どちらもよく承知していた。
 ベオウルフの吐く苦しげな息づかいだけが、あたりに呀する。
 朦朧とした意識の中で、それでも気絶することができずに喘ぐ愛人の呼吸。
 風が舞った。
 ラケシスの口が、ゆっくりと開いた。花のような唇が、ついに言葉を紡ぐ。
「天国へなんて行かないで」
 優しいとさえ聞こえる、甘やかな声。
 ベオウルフの灰色の瞳が、ラケシスを凝視する。
「おねがいよ」
 白皙の頬を、涙の筋が伝っていった。
 ラケシスの右手がそろそろと、腰の剣の柄に触れる。
 視界がじんわりと霞む。
「地獄で待ってて。私もすぐ、そこへ行くから」
 ラケシスの手が上がって、振り下ろされた。
 血の上に血が飛び散る。
 末期の苦痛の中に閃いた、柔らかな微笑。
 その表情だけが、ベオウルフの顔にいつまでも貼りついていた。


「レンスターに、ナンナを迎えに行って参ります」
 ドズル軍と矛を交えた戦場から帰還してすぐ、ラケシスはエーディンにそう告げた。
「そんな、急に・・・イザークでの拠点も定まっていないのに」
 良識派のユングヴィ公女はそう言って柳眉をひそめた。ラケシスの申し出はあまりにも唐突すぎた。愛人を亡くして、論理的な思考ができなくなっているのではないか。そう考え、さらに言い募ろうとした彼女だったが、
「すぐに戻ります」
 そのまなざしに明らかな狂疾の光を見て、エーディンは言葉を呑み込んだ。
 ラケシスはもはや彼岸に足を踏み入れていた。
 生を求めぬ者に、与えられるものなど何もない。
 たじろいで黙り込んだエーディンを後目に、ラケシスは歩み去った。
 彼女はその日のうちに馬上の人となり、イードに向かった。

 一週間後、砂塵にまみれた彼女の乗馬だけが、エーディンが庇護するシグルド軍の遺児達のもとに帰ってきた。
 傷だらけのままで。
 爾来、ラケシスの行方は杳として知れない。
(了)
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