想愛
761年 春

 






 バーハラ平原はいまや火の海に呑まれつつあった。
 後方から怒声と剣戟が迫る。
 天空を緋色に染めて、メテオが降り注いでくる。
 クロードは死を覚悟した。
「シルヴィア」
 傍らにひざまずく、幼い恋人に呼びかける。
 少女は目に涙を浮かべて、クロードが立ち上がり、もう一度走り出すのを祈っている。
「・・・・お行きなさい」
 人に教えを説くのに慣れた滑らかな声音が、若い神父の口から漏れた。それはシルヴィアが望んだ答えでは全くなかった。
「・・イヤッ」
 喘ぎに近い、擦れた否定の声。それはすぐに叫声に変わった。
「イヤ!イヤだよ、クロード様、一緒に逃げよう!」
 クロードの神官服の袖を掴んで、彼を引き上げて立たせようとする。クロードの身体は持ち上がったが、歩き出すことは出来なかった。先ほど転倒したときに右足首を挫いている。緩やかな服に隠れた左腿には、突き立った矢の鏃がまだ残っていた。
「もう走ることは出来ないのですよ・・・私の旅はここで終わりです。
 シルヴィア、ここから先は、あなた一人で逃げなくては」
 その宣告を、シルヴィアは顔をくしゃくしゃにして跳ねつけた。
「やだ!クロード様を置いてなんて、行けないよ!」
 クロードが秀麗な顔を曇らせた。
「シルヴィア、いけません」
 シルヴィアの小さな手は、クロードの僧衣を掴んで離さない。
 クロードはそのシルヴィアの手を、自分から離れさせようとする。
 時間がない。このままここで、二人でバーハラ軍に捕らえられることだけは避けなくてはいけない。クロードは焦った。
「シルヴィア、シルヴィア」
「やだ!」
「シルヴィア、お願いです。このバルキリーの杖を持っていって」
 いよいよクロードの決意が固いことを知って、シルヴィアは叫んだ。
「どうして!クロード様がいなきゃ、バルキリーなんて何の役にも立たないじゃない!」
「あなたの息子が使います」
 その言葉の意味を理解できず、シルヴィアが黙り込んだ。
 涙に濡れた頬は戦塵で汚れている。強い生命力を秘めてきらきら輝く黒い瞳。
 小さな体躯から溢れ出るその美しい活力を、クロードは愛した。
 二人の間には一人の娘がある。今は遠くシレジアに預けてきた、生まれたばかりのリーンだ。
 そして息子はいない。
 聖戦士ブラギの血脈をクロードから受け継ぐ、バルキリーの杖を扱える息子はいない。
 今は、まだ。
「クロード様・・・」
 涙に潤んだ、黒い大きな瞳がクロードをひたと見据える。
 懐疑と理解が相半ばするその眼差し。
 クロードはそっと背を押した。
「まずはあなたが生き延びなくては。・・・身体を大切にして、慈しんであげてください」
 シルヴィアの手に、バルキリーの杖を握らせる。
「・・・・・クロード様」
 シルヴィアが理解したことを知って、クロードは優しく笑った。
「さあ、行って」
「・・・・クロード様!」
 シルヴィアがクロードの首にかじりついた。その力は驚くほど強い。
 クロードも抱擁を返した。シルヴィアの小さな体躯が、小刻みに震えている。
「・・・ずっと好きだからね!どんな目にあっても、何人の男に抱かれても、ぜったいクロード様のこと忘れないから!」
 芸人として厳しい人生を送ってきたシルヴィアにとって、嘘のないその言葉は最大限の愛の表明に他ならなかった。
 未練を思い切るように、身体を素早く引き剥がして、シルヴィアは走り出した。
 一度決心したことに迷いはない。後ろも振り返らず、シルヴィアの姿はみるみる遠ざかる。
 あるいは振り返って、決心が鈍るのを懼れたのか。
 クロードにとってはどちらでも良かった。あの小さな娘が、自分を含めたグランベル貴族の権力闘争と、その背後に見え隠れする暗黒神ロプトウスの影から永久に抜け出すことができるなら。
 炎の音がいちだんと大きくなった。
 バーハラ軍の喚声が耳を圧する。
 見えなくなった小さな後姿を、もう一度目蓋に思い浮かべるかのように。
 クロードは黙って目を閉じた。
(了)
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