天の河
758年 初秋

 






「夜になったら、星を見に行かないか」
 さらりと切り出したベオウルフに、ラケシスは怪訝な視線を向けた。
 シレジアに渡って一月。ようやく北国の水にも慣れ、シグルド軍は叛逆の汚名を被ったショックから表面的には持ち直し、平穏な日々が続いていた。ベオウルフはアグストリアで交わした約束の通り、たびたびラケシスに剣の稽古をつけてやっていた。今日も打ち込みを繰り返し、練習が終わったあと、唐突にベオウルフがその提案をしたのである。
「あなたと、二人で?」
 ラケシスはベオウルフを信頼している部分もあるが、いまだに警戒している部分もある。とくに彼と二人きりになることに、年頃の娘にふさわしい不安を抱いているようであり、それがベオウルフには興味深くも新鮮でもあった。
「別に厭ならいいぜ。他に相手を捜すさ」
 その言葉にラケシスの表情が硬くなった。
「いいわ。行くわ」
 ラケシスはあっさりと不安を棄てたようだった。だが、
「イーヴ達にもついてきてもらいます」
 今度はベオウルフが不機嫌になる番だった。
「あいつらは邪魔だ」
「邪魔ってことはないでしょう。星を見るだけなのに」
「俺はあいつらが嫌いなんだ。堅っ苦しくてな」
「あなたと相性が悪いだけでしょう」
「否定はしねえが、苦手なもんは苦手だ。いいさ、だったら他を当たるよ」
 ベオウルフは練習用の刃を潰した剣を投げ捨て、くるりと背を向けて、さっさと歩き出した。 取り残されたラケシスの視線には、ベオウルフは気づかなかった。


 夕闇が迫る頃、ベオウルフは酒瓶を片手に馬小屋へ向かった。
 結局誰にも、ベオウルフは声をかけなかった。彼が共にいたい人間は、シグルド軍の中にはそう多くいるわけではなかった。
 特に今夜のようなときには。
 厩に続く通廊で、ベオウルフはラケシスの姿を認めた。
「どうした」
「やっぱり一緒に行くわ」
「厭なのに無理矢理来る必要はねぇ」
 ラケシスは傷ついた表情をした。
「気が変わったの」
「そうか。じゃ、来い」
 深く追及することはせず、ベオウルフはラケシスを促した。自分の馬に鞍をつけて跨り、ラケシスを引っ張り上げる。
「どこまで行くの?」
「海岸線へ出る」
 ラケシスを左腕で抱えながら、ベオウルフは馬を飛ばした。

「今夜は新月だ」
 崖下にうち寄せる波の音のほかには何も聞こえない、牧草地の突端で、二人は馬から下りた。
「だから天の川がよく見える」
 云われて、ラケシスが天を仰ぎ見る。
 闇の天蓋を、白く輝く筋が走っている。
「綺麗ね」
 ラケシスがため息をついた。
 ベオウルフは馬の手綱から手を離し、その場にどっかりと座り込んだ。馬が草を食むに任せて、自身は瓶の蓋をはずし酒を呷る。
「俺が傭兵として渡り歩いていた頃、東方の出身者に会ったことがある」
 天を見たまま立ちつくすラケシスの背中に、ベオウルフは声をかけた。
「そいつの話では、あの天の川というやつは死者の霊魂の集う場所なんだそうだ」
 ラケシスがベオウルフを振り返った。
 星明かりの下で、獅子のような金の髪が青白く輝く。
「だからエルトシャンもあそこにいるのかと思ってな」
 酒瓶を天に掲げて見せる。
「あいつの思い出を共有できるやつと、ここに来たかったんだ。新月の夜に」
 ラケシスがゆっくりベオウルフのもとに歩いてくる。彼の傍に来て足を止め、その場に座り込んだ。ベオウルフが酒瓶を渡すと、とまどったような表情を見せたが、黙って受け取った。
そのまま酒を飲むことはせずに瓶を両手で抱え、もてあましたように酒瓶を見つめている。
「あいつのことを少しは考えられるようになったか」
 以前ラケシスは、兄王の死に責任を感じるあまり死に急ごうとしたことがあった。
「いつも考えてるわ。いつでも」
 声が震える。涙が頬を伝って流れているのを、ベオウルフは見た。
 ラケシスが心に受けた傷が癒えることはあるまい。だがラケシスは、自分がエルトシャンの死にくじけそうになっていることを誰にも報せなかった。ノディオンから連れてきた三騎士にも、他の何者にも。ラケシスの心情を看破したベオウルフ以外には。
「もう忘れろ」
「無理よ」
 ベオウルフはエルトシャンに軽い嫉妬を感じた。彼がこの妹に恋に近い強い感情を抱いていたことを、ベオウルフはエルトシャンから聞いて知っている。
 あれは今年の春のことだった。


「俺に何かあったら妹を頼む」
 エルトシャンは短く言って、それきり黙り込んだ。
「どうかする予定でもあるのか」
 ベオウルフの追及に、エルトシャンは笑って応えた。
「シャガール王さ。俺は陛下に疎まれている」
「憎まれている、の間違いだろう。あいつは前王と違って愚劣で陰湿だ。見限っちまえ、あんなやつのことは」
 騎士をやめたベオウルフの言葉には遠慮がない。エルトシャンは苦笑して、
「相手はノディオンの主家だ。そうもいかん。主君に忠義立てて我が身を滅ぼすのは俺の勝手だが、ラケシスまで殺すには忍びない」
「じゃあ今のうちに他国に嫁がせろ」
 国を出ればアグストリアの政争に巻き込まれずにすむ。
「できん」
 エルトシャンは即答した。
「ラケシスにそのつもりがない。自分が気に入った相手でなければ嫌だし、国を出たくはないと言うんだ」
「じゃあ留学だっていいだろう」
「駄目なんだ」
「そんなに反抗的なのか」
「そうじゃない。俺が駄目なんだよ」
ベオウルフはエルトシャンを凝視した。
「危険なのはわかってるが、国を出す気にどうしてもなれん。嫁がせるなどもってのほかだ」
 一拍の間があって、
「……おかしいだろう?」
 エルトシャンの、苦い微笑。
 その感情を理解したとベオウルフは思っていたが、実はわかってなどいなかったのだ。
 ラケシスに会うまでは。
 ラケシスに出会って初めて、ベオウルフはエルトシャンの感情を正しく理解した。


 固く引き結ばれた唇。きつく吊りあがった目尻。
 兄の死に直面し反逆者の汚名を着せられて、なお烈気を失わない意志の強い瞳。
 姫君という身分にむしろそぐわぬほどの、内面の激しさ。
 脆さと表裏一体の強さを持つラケシスに、ベオウルフもまた引かれた。
 そのラケシスが、兄の死からいつまでも立ち直ることができない。エルトシャンを思って今も泣いている。そのきっかけを作ったのはベオウルフであり、それがラケシスの為になると思っての行為であったのだが、今になって彼は、それをひどく後悔していた。
 自分の気持ちをラケシスは知っているか?
 おそらくは、応。だから彼を警戒するのだ。
 だが今、ラケシスは、すべての防壁を取り外して黙って追悼の涙を流している。
 ベオウルフも何も云わぬまま、彼女の肩を引き寄せた。
 ラケシスが頭を彼の肩に預けてくる。涙に濡れた目を天に向け、それはまるでエルトシャンの魂を探そうとしているかのようだった。
 うち寄せる波の音と、時折聞こえる馬が鼻を鳴らす音。
 ふたりはいつまでもそうして空を眺めていた。

 ラケシスは黙ってベオウルフに身を預けていた。
 エリオットと違って、この男は抑制が利いている。
 この男になら、あるいは応えてもいいかもしれない。
 そう思いながら、ラケシスは天の川を見つめ続けていた。
 兄王エルトシャンの死を悼み、涙を流しながら。
(了)
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