追憶
777年 夏
女性向

 






 眼前に異父兄セリスの率いる軍隊が布陣している。援軍というよりは暇潰しでもするつもりで、ユリウスはその丘の上に立った。
「遊びをしよう、イシュタル」
 愉しげにそう云って、緋色の髪を翻した。そのまま平原を敵陣に向かって歩き出す。
「敵の将の一人を屠る。速く殺せたほうが勝ちだ」
「心得ました」
 二歳ほど年上の恋人が、背後から昂揚した声で返事を投げた。子供を狩ることに批判的ではあっても、彼女もまた、戦を好む聖戦士の血を色濃く受け継いでいる。
 ロプトウスとトールハンマー。二つの神々の武器を携えたふたりは、無造作とも呼べる気安さで、敵軍に接近した。
 無敵に近い敵将二人が現れたことに恐れをなしたか、セリス軍が慌てたように散開する。その中に、あからさまに逃げ遅れた者たちがあった。武器を持たず、女が多い。回復と補給を担う僧侶の一団だ。逃げまどう彼らの流れに逆らうように、小柄な若者がユリウスに向かって走ってくる。身につける僧服はまごうことなく上質の絹で、トラキア貴族の紋章が縫い取られていた。手には杖でなく魔道書を持ち、今にも放とうとしている。
 自分の仲間を護ろうとする、僧侶の指導者。ユリウスはその若者に目を付けた。
「私の勝ちだな、イシュタル!」
 傍らの娘に向かって叫ぶと、マントの中から右腕を跳ね上げてロプトウスの魔法を放った。遠距離であっても、狙いを外さぬ自信はあった。
 若者は避けなかった。己の魔法は打たず、かわりに、自分のごく近くにいた僧姿の娘をロプトウスの軌道から突き飛ばした。自身は直撃を受け、地に倒れる。
 笑みを穿きながら、倒れた敵将を検分するためにユリウスは近寄った。僧姿の娘が、若者を見捨てることに躊躇いながらも走って彼から遠ざかる。ユリウスは笑って、追いかけなかった。心の余裕を奪って、人間の本性をさらけ出してやるのは気分がいい。それが普段は取り澄ました僧侶であるなら尚更。
 近づいてみて、ユリウスはその僧侶が年端もゆかぬ少年であることに気づいた。自分と同い年くらいだ。俯せに倒れ、短い金髪と白い僧服が血に染まっている。その胴を足で転がし仰向けにすると、先ほど目にしたトラキア貴族の紋章が表れた。
「トラキアの楯、ハンニバルの紋章だな。その血縁の者か」
 そのとき、少年の喉が動いた。まだ生きている。血塗れた顔に目をやって、そこでユリウスは既視感に捕らわれた。
 この顔を知っている気がする。しかしそんな筈はない。トラキア人に知己はない。
 見下ろす少年の顔が苦しげに歪み、空気を求めるように口が開いた。溢れた血が顎を伝った。
 ユリウスは黙ってそれを見ていた。
 瞼が痙攣し、ゆっくりと目が見開かれる。ユリウスは少年の瞳の色に、ラピスの青を期待した。
 少年の瞳は淡い緑だった。混濁した意識の下で、幼い瞳がユリウスを見上げた。
 ユリウスは目を瞠った。
 感情の潮流がユリウスを支配した。



 記憶の中のその男を後に思い出して、あれは幽霊だと思っていた時期もあった。
 だがその男は生身の男だった。どこかこの世を超越した、幽鬼のような雰囲気を湛えてはいたけれども。
 風に吹かれて広がる長い金の髪。抜けるような白さの肌。そして白く長い僧衣。
 陽の当たる庭で、長椅子に座って、空に流れる雲を目で追いかけていた。
 ユリウスが妹と共に、ふざけてその足にまつわりつくと、その者はラピス色の瞳をこちらに向けて無言で微笑んだ。温かい手がユリウスの頭に置かれる。父とも母とも違う存在に触れられた、柔らかな思い出。
 そんな情景を幾度か繰り返した。
 今際の際にその者が、弱々しく手を延べて、自分を優しく抱き寄せてくれた。
 血塗れの温かな骸に抱かれて、幼いユリウスは泣き疲れて眠ったのだ。
 父がその者を何と呼んでいたか覚えている。
 クロード。
 父が排斥したエッダの領主だということを、ユリウスは後に知った。



 血で朱に染まった記憶の中の男と、目の前の少年の姿がユリウスの脳裏で重なった。
 ユリウスの唇の端が笑う形に吊り上がる。
「おまえはあの幽霊の息子か」
 瀕死の少年は言葉もなくユリウスを見つめていた。自分が何を云われているか理解しているとも思えない。
「ユリウス様?」
 後背から、イシュタルが気遣わしげに声をかける。ユリウスは答えず、白い手を翻すと、かがみ込んで少年僧の胸に手を置いた。
「気が変わった。助けてやろう」
 敵の僧侶団が落としていった回復の杖を掴む。見る間に少年の体内の傷が癒えていく。
 ユリウスが放った魔法は少年の気道と肺を傷つけ、溢れ出た血が少年を今にも窒息させようとしていた。ユリウスは少年の顎を掴み、己の口で彼の唇を塞いで、ロプトウスの神気を纏った呼気をその喉奥に吹き込んだ。
 少年が咳き込む。体を傾けてやると、喉から夥しい血を吐いた。恢復した喉を新鮮な空気が通り、少年は窒息死を免れた。少年は俯せになって激しく咳をし、もはや体内に戻らぬ血を完全に喉から吐き出した。
 ユリウスは立ち上がって無言でその様を見下ろした。少年僧が身動きし、肩で息を吐きながら緑の瞳をこちらに向ける。
「命拾いしたな」
 そう云ってユリウスは笑った。少年がもの問いたげに強い視線を向けたが、それに答える気はユリウスにはなかった。身を翻してイシュタルに目を向ける。
「遊びは終わりだ。帰るぞ」
「ユリウス様‥‥?」
 イシュタルもまた怪訝な顔でこちらを見た。ユリウスは苛立った。
「俺を怒らせるな」
 その低い声に、イシュタルが怯えたように身を竦めた。
「も、申し訳も‥‥」
「帰るぞ」
 イシュタルに皆まで云わせず、彼女の細い腕を無造作に掴んで、転位の魔法を使う。
 ユリウスは少年僧の前から姿を消した。


 その男がどんな気持で生きて死んだかユリウスには知る術がない。
 当時自分は幼く、そして身に余る力を制御できず途方に暮れていた。
 だが間違えようもなく、あの男の追憶はユリウスを和ませる。
 口の中で、甘い血の味がする。唇を舐め取ると、先ほどの少年僧の血が舌に絡みついてきた。
 それを陶然と飲み下しながら、ユリウスはひとり笑った。
 紛れもなく暗黒神の笑みであった。だがそこには同時に、ひとりの少年の安堵の笑みも混じっていた。
 ほんのわずかに。
 
(了)
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