| 夢鏡 |
| 774年 初秋 |
幼いナーガの娘が、一心に鏡を見ている。 その様子に気づいて、フォルセティは眉を潜めた。 全身を映す一面鏡の前に座り込んで、自分自身の内面を覗き込むかのように見つめ続けている。失った記憶を取り戻そうとするかのように。 フォルセティは歩み寄り、娘の肩に手をかけた。 「どうした」 表情の少ない娘は顔色も変えずに答える。 「どこかで見たことがあると思いまして」 「それはそうだ。おまえの顔だ。産まれてから今まで幾度も鏡で見てきただろう」 「いえ、そうではなく・・・・・・」 語尾は鏡に吸い込まれるかのように消えた。ユリアが手を伸ばし、鏡の面にそっと触れる。 フォルセティは黙ってユリアの思考を探った。 封じられた記憶の底。闇の中で瞬く小さな光。 ユリアが手探りで、その記憶の上をなぞろうとする。闇色の砂がほんの少し動いて、光の正体が露わになった。 縦長の瞳孔を持つ、黄色い瞳。 フォルセティはその者の名をよく知っていた。 暗黒神。ロプトウス。 そのとき、ユリアが名を呼んだ。恋する者の名を呼ぶときのように。甘く。痛々しく。愛おしげに。 「ユリウス・・・・・・」 言う端から大粒の涙が頬を伝い落ちる。未だ幼い娘がこうも情を持って双子の兄の名を呼ぶことに、フォルセティは強い危機を感じた。 「ユリア」 小さな肩をゆっくりと揺する。 「忘れろ。おまえには、身寄りなど誰もいない」 兄と自分との間に何があったか、兄が何をその身のうちに住まわせているのか、今は思い出すときではない。ユリアの心に、忘却の砂を覆い被せて、記憶の井戸の蓋を固く封じねばならぬ。 ユリアの理性が曇る。見開いた目がゆっくり伏せられた。 顔から表情が失せ、茫洋としたまなざしに戻った。 涙は消える。 フォルセティは心を痛めた。人の身を借りているのが煩わしいのはこんなときだ。心と呼ばれるモノが、ちりちりと疼く。 「赦せ」 誰にともなく、言葉を漏らした。 この娘の記憶を、時満ちるまで奪い続けることに対する謝意か。 そうだ。だが、それだけではあるまい。 自分に体を与えた男と、その家族に対する詫び。あるいはロプトの動きを知りつつ、あえて放置した、崩壊したヴェルトマー・グランベルの一族に対する。 神であることはつらい。 フォルセティは苦笑して、鏡の前から去った。 鏡の前で、ユリアが再び己の姿に見入っている。 鏡面の頬をなぞる指の向こうに、ほんの一時。 赤い髪と見える影が映って、すぐに消えた。 |
| (了) |
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