灰色世界の住者
成歩堂×御剣(逆裁1後)

 





 黙って姿を眩ましたまま二週間も連絡を取らなかったことに、もちろん引け目はあった。
 検事局を去った理由は幾らでもある。DL6号事件の解決。その真犯人。ひょうたん湖殺人事件の解決。その経緯。狩魔検事の逮捕。私が誤認逮捕された事実。私が裁かれた悪夢のような三日間と、その後に続く報道、取材、そして仕事始めの後の幾つもの公判。
 君には手紙を書くつもりでいた。日本を去る前に。
 刑事課で便箋を拝借したものの、十数枚を反古として消費してなお、私の手紙はいっこうに手紙としての形態を成さなかった。
 君に宛てて手紙を書くのは無理だ。
 そう悟った私は去り際にファクスのトレイから紙を1枚引っ張り出し、ただ一文を書き付けた。
 あまりにも簡略すぎる。
 そのことに気づいたときには、私は既に出国準備を済ませて飛行機に搭乗していた。
 良い。
 もう君に会うことはあるまい。
 君の友情と信頼を一方的に裏切ることになるのは心苦しかったが、これ以上あの場所にいるのは耐えられなかったのだ。
 地球を半周もしてあの場所から遠ざかり、十日以上の時間を置いて、ようやく私は物事を理性的に捉えられるようになった。自分への心理負担と君への弁明の必要性、長らく天秤にかけられていたこの二つが、ようやく後者へ傾いた。
 携帯電話は出国の際に解約して来ていた。コートの胸ポケットからスケジュール手帳を取り出し、成歩堂法律事務所の電話番号をダイアルする。
 誰も出なかった。
 時差があると気づいたのは、十二回ほどコールした後だ。こんなことを見落とすなんて、我ながらどうかしている。それとも無意識に、向こうで深夜の時間帯を選んでいたのだろうか。
 それからまた数日後、君に電話をかける勇気を再度奮い起こした。
 ホテルのロビーから、今度は自宅の電話番号にかける。またしても日本時間は夜中だと1コール目で気づき、しかし手が動く前に向こうで電話が繋がった。
 突如として耳元に声が突き刺さる。
「御剣!」
 気がついたときには、私の右手は叩きつけるように受話器を戻していた。
 電話の向こうの声は確かに君だった。なぜ私とわかったのか、ぼんやりと頭を掠めた疑問はすぐに消えた。己の感情に意識が手一杯になったからだ。
 手の震えが止まらない。
 君の声が頭の中で呀となって鳴り響く。ただひとことの、絞り出すような叫びが、海を越えて私を呼ぶ。
 電話からかろうじて離れ、すぐ傍の壁に凭れかかった。周りを見回して、グレイ調だと思っていたロビーが実は淡いピンクと格調高い赤で統一されていることに気づく。動悸がする。息が荒くなる。顔が火照り、下腹部が激しく疼く。部屋に戻ったら、この激情の処理を自分ですることになるのは目に見えていた。
 すまない。
 これが、あの場所から逃げ出した理由だ。
 君と同じ法廷に立てない。国内の、どこの法廷でも同じことだ。街角でも、ビルでも。
 どこにいても、君の姿を探す自分の目がある。君の声を求める自分の耳がある。何と呼ぶのかもわからないこの感情がついに法廷においてまで私を満たすに至り、私はとうとう逃げ出した。
 審理の役に立たない検事など、存在することに何の意味があるのか。
 年末に起きた数々の事件に、自分が動揺していることはわかっている。その動揺の上に君への感情が乗っかって、自分ではどうにも制御できない。
 体がようやっと少し落ち着く。もう電話はかけられない。とても無理だ。
 のろのろと体を動かして、ロビーから階段へ向かう。エレベーターが苦手なのは相変わらずだ。
 階段を2階半ほど上がったところで、人気は完全に絶えた。
 君に電話をかけたのは、弁明したかったからではなく君の声を聞きたかったからだ。
 そのことに気づいて泣きたくなった。
 君の声。
 この二週間ひどく遠いものに感じ、安心していた君との距離。
 この距離なら、冷静に話せると思った。理解できない自分の心は隠して。上手に。これまで法廷でしてきたように、手の内を明かすことなく、いとも鮮やかに。
 だが私は変わってしまったのだ。
 君が弁護士として私の人生に登場し、私の経歴に影を落としたことで、私は変わってしまった。
 今の私は君の前で嘘がつけない。何が辛いと云って、そのことが一番辛い。
 君は私の名を呼んだ。
 私の失踪に君が傷心していること、それがよくわかる悲痛な声で。
 君の声が私の心を千々に切り裂く。君を私が傷つけていることへの痛み。君が私のために傷ついていることの歓び。
 そして君の声は、私の世界に色をつける。
 私は君によって生まれ変わる。自分の視界が灰色であったことを、私は君によって知らされた。君といると空は澄明な青に、木は生き生きとした緑に、血は鮮やかな赤になって私の目に映る。
 だがそのことに、今の私は堪えられないんだ。
 嗚咽がこみ上げてきて、思わず手で口を塞いだ。くぐもった声が喉の奥から漏れて、周囲に虚ろに響き渡る。
 誰もいなくて幸いだった。
 とりわけ君がいなくて幸いだった。
 階段の踊り場に立ち止まり、手すりに凭れながら、私は安堵の中で声を殺して泣いた。 
(了)
姉妹編「夜見る海の夢」を読む
戻る