| 黎明の空 |
| 成歩堂×御剣(逆裁1後〜失踪) |
大晦日の二日前、飲みに行こう、と御剣の携帯を鳴らしたのは成歩堂だった。御剣はその前日に、例外的とも呼べる迅速さで釈放手続きをされ、解放されていた。検事局に戻るのは年始からで、年末と三が日は御剣は、あてどもなく家に引きこもって過ごすだろうとぼんやり考えていた。 ゆえに成歩堂の誘いを断る理由はなかった。 そして御剣は家にいたくなかった。 居間のテレビの上に飾られた父母の肖像写真、書棚の古びた六法全書、テーブルの上に置かれた秋霜烈日の検事のバッヂ。 それら全てが、沈黙に支配されたうすら寒いこの空間で、特別な威圧感をもって御剣に迫ってくる気がした。 コートを羽織り、家を出て、市街の喧噪に身を晒す。成歩堂は明るく、居酒屋は慌ただしくも騒がしかった。 良い気分とは呼べないにせよ、御剣は沈んだ気持をいくらかはやわらげることができ、その点において成歩堂に感謝した。成歩堂に景気を聞くと、昨日の今日なのに、と笑い、相変わらず暇だ、という答えが返ってきた。ぽつぽつ依頼が集まってきてはいるが、すべて来年の話だから、と。 だから明日も暇なんだ、と成歩堂は云った。御剣は彼の真意を計ろうと成歩堂を見つめ、成歩堂は照れくさそうに笑って、明日も飲もうよ、と再度誘いをかけてきた。 御剣は断らなかった。 成歩堂は酒気に頬を染めながら御剣の手を取り、君を無罪に出来て本当に嬉しいと幾度も繰り返した。その都度御剣は、そうだなと答えた。 二回ほど河岸を変え、日付が変わる頃に駅で別れた。成歩堂は籠の曲がった自家用自転車を引きずって御剣を駅まで送った。 御剣が手を挙げて無言で挨拶をし、背を向ける。また明日、と成歩堂の声が耳に響いた。 家に帰り着くと、闇と沈黙が御剣を出迎えた。 御剣は頭を抱えぞんざいに衣服を脱ぎ捨て、寒さではない何かに震えながら布団に潜った。 成歩堂と共に味わったはずの酔いは消えていた。 御剣は壁を向き、寝返り一つ打たないまま目を見開いて、そしてそのまま朝を迎えた。 昼のうちに父母の墓前に報告を済ませ、夕刻、御剣は昨日と同じ居酒屋の戸をくぐった。成歩堂はすでにいて、傍になぜか矢張や糸鋸まで揃っていた。 前日よりさらにかしましく、明るい酒の席になった。 御剣は家に帰るのが嫌で、半ば意識的に終電を逃した。やがて糸鋸は寮に戻り、矢張はここ2日で急激に愛を育んだできたての恋人の元へと姿を消し、昨日と同じく、成歩堂と御剣は最後の数時間を二人で杯を重ねた。 成歩堂の家に向かうのはどちらも無言のうちに了解していた。飲酒運転の上二人乗りという二重の法律違反を犯しつつも昨日よりさらに救われた気持で、自転車の荷台に座った御剣は成歩堂の腰に腕を回していた。成歩堂は白い息を吐きながらからからと笑って、師走の町をよろよろと迷走した。 成歩堂が住まうアパートに辿り着く頃には、御剣の足は相当おぼつかなくなっていた。そんな御剣の腕を同じく千鳥足の成歩堂が支え、二人が通った小学校の校歌などを合唱しながら階段を昇った。成歩堂が手探りで鍵を開け、二人して上体が揺れながら明かりもつけずに中へ入ると、途端に御剣が玄関の段差に勢いよく躓いて、二人は揃ってその場に倒れ込んだ。 やや広めのダイニングキッチンの絨毯は、成歩堂の匂いがした。 闇に慣れた御剣の瞳に、成歩堂の黒目がちの目が映った。 成歩堂は起き上がる気もないようで、じっと御剣を見つめていた。御剣の冷えた頬にそっと触れながら、何事か思案しているようだ。計算高さと人の良さを併せ持つその目に、何か餓えたような光と、それを恥じて隠そうとする、相反する意志がほの見えた。 御剣の酔いはゆっくりと引いた。そして体奥で、成歩堂の飢えに反応するかのように、別の熱が頭を擡げるのを自覚した。 だが成歩堂の目には理性が戻ってきていた。右手をついて、半身を起こし、立てるか、そう云って左手を伸ばしてきた。 御剣もまた手を伸ばした。 その手は成歩堂の掌をすり抜けて、首にまで届いた。成歩堂が驚くほどの力でその首を引き寄せて両手で顔を捕らえ直し、己の頭を持ち上げるようにして成歩堂の唇を捕らえた。 御剣の舌がわずかに成歩堂の唇を掠めるだけのキスだった。 しかし次の瞬間、成歩堂は自ら御剣の上に覆い被さって、御剣の口を貪ってきた。乱暴なまでの勢いで舌が割り入れられ、歯列をこじ開け、御剣の舌を翻弄する。酒気を帯びた唾液が御剣の口に多量に流れ込んでくる。自ら誘っておきながらその動きに息も継げぬようになって、御剣は当惑しながらしかし拒否はしなかった。無意識ではあろうが、抵抗されることを怖れるかのように、成歩堂の左手は御剣の右手を強く床に押しつけていた。痛いほどに。 成歩堂の手は本格的に御剣に触れ始めた。その許可を与えたのは自分であると、御剣にはわかっていた。法廷で常に突きつけられてきた成歩堂の太い指が、御剣のコートの上をせわしい虫のように這った。襟の隙間から、裾から、成歩堂の手が差し入れられて、セーターとスラックスとその奥にある御剣の体をまさぐり、御剣に少しでも近づこうとしてきた。御剣は抵抗せず、成歩堂が荒々しく導くままに足を開き、成歩堂の膝が割り入れられるのを受け入れた。 そこで成歩堂は一瞬だけ躊躇うように、御剣を見下ろした。靴も脱いでいない玄関先で、情交に及ぼうとしている自分たちを自覚し、我に返って面食らうかのようだった。今まで二人の間で、性をほのめかすような会話はしたことさえなかった。 御剣はそんな成歩堂を挑むように見上げた。 成歩堂を正気に返らせる気はなかった。昨日今日の居酒屋で、留置所の取調室で、視線を交わし議論を戦わせる法廷で、幾度となく成歩堂が垣間見せた自分への憧憬、嫉妬、憐憫、野心、さらにその奥に着実に横たわる色めいた欲情を、御剣は嫌と云うほど知っていた。そしてその都度、成歩堂の熱に反応する自分がいたことも。 御剣は成歩堂を再度引き寄せ、その首を抱えた。キスを求めることはせず、露わになっている耳元に熱い息を吐きかけながら、ただ一言尋ねた。 「寝室はどこだ、成歩堂」 成歩堂の目の色は明らかに変わった。 成歩堂は御剣の足から靴を抜いて放り投げ、コートの襟を掴んで引きずるような形で、自らも這いずりながら御剣を寝室へ導いた。その間も接吻と接触は執拗に繰り返され、舌と指が御剣の肌を這い、服ははだけられていき、寝室に辿り着く頃には御剣のスラックスはダイニングキッチンに脱ぎ捨てられていた。 言葉はどちらも発しなかった。荒い息づかいと衣擦れがダイニングキッチンを抜けて寝室まで続いた。ベッドの下まで辿り着くと成歩堂は自らも服を脱ぎ始め、その合間に噛みつくような接吻を幾度も繰り返した。成歩堂の手が下着の間に割り入ってじかに御剣自身に触れ、御剣はびくりと体を震わせた。成歩堂は御剣自身をその手に収めたまま下着からそれを取り出し、どこか恍惚とした表情でゆっくりと顔を近づけた。見下ろす御剣はその行為に何か崇高なものさえ感じて、次に続く刺激を何の抵抗もなく受け入れた。 御剣の全身に快感の波が幾度も走った。四肢からは力が抜け、成歩堂が翻弄するままに荒い息を吐いた。冷たい部屋に吐き出される呼気には熱い喘ぎ声が混じり、御剣はそんな声を発することの出来る自分自身に驚いた。耐えきれずに吐精しそうになり、慌てて身を捩って成歩堂から離れようとしたが、成歩堂は離さなかった。成歩堂の口の中で御剣の雄身が跳ね上がり、成歩堂は躊躇もせずに精液を喉の奥へ送り込んだ。呑み込んだ後で成歩堂が頭を擡げ、御剣を見上げた。口の端から御剣の名残が筋を作ってこぼれている。瞳に宿る飢えた光は相変わらずで、その上にさらに満足そうな表情が宿っていた。渇望していたものをついに手に入れる、それを確信する者の眼差しだった。御剣は総毛立った。男女を問わず今までそのように欲されたことはなく、しかも男の肉体をこのように受け入れるのは初めてだった。 御剣は恐怖した。 だが恐怖も自分には必要な感情だとわかっていた。 成歩堂が伸ばした腕を受け入れ、御剣は膝を立て、成歩堂の背に腕を回してその頭を相手の胸に擦り付けた。 続く行為はおよそ快楽と呼べる代物ではなかった。 成歩堂は決して手慣れたとは言えぬ、むしろぎごちない所作で、それでも精一杯優しくしようと努めていたことだけは御剣に伝わった。 こらえ切れぬ悲鳴が御剣の口から漏れ、その都度成歩堂が表情を暗くしていくのがわかった。最終的に成歩堂は御剣を穿つのは諦め、後ろから手を回して自身の竿を御剣のものに擦りつけ、共に煽り立てることで射精を果たした。御剣は疲労と苦痛の極みの中で、成歩堂の腕に抱かれたまま気絶するように、久方ぶりの眠りに落ちた。それは夢も見ない、泥のような眠りだった。 逮捕されてからこちら碌に眠りもせず、軽いうたた寝の際には必ず悪夢に跳ね起きていた御剣は、ようやく十分な睡眠にありついた。目を覚ますと間近に成歩堂の顔があり、布団の中に二人で並んで横になっていた。 成歩堂は瞬きもせず、御剣を見つめていた。 寝なかったのかという御剣の問いに、寝たよと成歩堂は答えた。布団の中から手が伸びて、御剣の頬に回された。 ごめん、という言葉がなぜ自分にかけられたのか、御剣にはわからなかった。 だから、謝るな、とだけ答えた。 成歩堂がゆっくりと腕を回し、御剣の体をかき抱いた。 くつろぎながら、間近に他人の体温を感じるのはあまりにも久しぶりだった。同性の成歩堂の体はごつごつしていて女の体とはかなり違ったが、それでも安堵を感じた。そしてそれは、今まで味わったことのないほど強いものだった。 御剣は目を閉じもう一度眠りに落ちた。 今度も夢は見なかった。 二度目に目を覚ますと既に日は高く、おそらく午後を回っている時刻であると思われた。 自分の隣には誰もいない。キッチンで火を使う音が聞こえ、それが消えたかと思うと成歩堂が扉から顔を出した。御剣が起きていることに気づき、声をかけた。 「おはよう」 今までと同じ、少し構えたような、それでいてまっすぐな微笑だった。 全然早くはないけど食事にしようよ、と成歩堂は云った。御剣の服はきちんと揃えられてベッドの傍に置いてあった。 炬燵で取った食事は、正直なところ旨くなかった。君は自炊をしないのか、と御剣に問い詰められ、成歩堂は誤魔化すように軽く笑った。大抵は近所の定食屋を使うとのことで、今回の食材は御剣が眠っているうちに買い物に出て仕入れてきたもののようだった。 御剣が冷蔵庫を開けると、賞味期限の過ぎた調味料が棚に転がり、得体の知れない物体が野菜室で朽ちるに任せてあった。呆れたな、と御剣は呟いた。実際に口にできそうなものは、半ダースの紙パックに収まった缶ビールくらいのものだった。法廷でもよく見せる誤魔化し笑いを続ける成歩堂に御剣は、君さえよければ今夜は私が食事を作る、と云った。成歩堂は目を丸くして、大晦日だが帰らなくていいのかと尋ねた。 それで御剣は今日が何日だったか思い出した。 だがどうでもよかった。家に戻ったところで帰りを待つ誰かがいるわけではない。 「私はいい。君さえよかったらの話だ」 その言い方が卑怯なことも御剣は承知していた。 成歩堂は断らなかった。そして頬を赤らめた。 昨夜の情交を思い出したのだろうと御剣は想像した。御剣から成歩堂の頬に手を触れて、身動きも出来ずに硬直している相手を見つめた。 胸中には何の感慨も湧かず、ただ昨夜の熱が、ゆっくりと甦った。 赤面症の成歩堂が息を飲んでこちらを見ている。まるで純情な中学生のようだ、と御剣は思った。この男がなぜ自分を欲するのか、御剣にはまるでわからない。 誘うようにゆっくりと体を近づけて、唇に口づけた。成歩堂は弾かれたように反応し、そして躊躇い、抑制が利かなくなるから、と云って御剣を押しのけようとすらした。 構わない、と御剣はそれを制して、さらに体をすり寄せた。昂奮と緊張に妨げられながら、成歩堂の手がそれでもしっかりと御剣の背に回った。昨夜と同じように成歩堂は欲情に屈服して豹変し、荒々しく押し倒されながら御剣は成歩堂に縋りついた。 こんな行為をいつまでも続けるわけには行かないとわかっていた。何より成歩堂を利用していることが嫌でたまらなかった。仰向けになって足を広げ、苦痛と羞恥を吐息の中に呑み込んで、自分でさえ触れたことのない箇所に成歩堂の指を受け入れながら、自分の心がゆっくりと悦楽に溺れ始めていることを御剣は自覚した。こんな行為に縋りついていたら全てを失ってしまう。体を成歩堂に委ね、心を預けながら御剣の脳は目まぐるしく計算し、自分が何もかもに後始末をつけて綺麗に消えてしまえるまでに何日かかるかをはじき出した。ひょうたん湖殺人事件の後日調査、狩魔検事に関わる事情聴取、自分の逮捕により中断していた幾つかの担当審理、それらをすべてひっくるめて、三週間で片をつけると決めた。退職申し出には最低一ヶ月の調整期間が必要だが、取ったことのない有給休暇の剰余が実際の出勤日を減らしてくれるだろう。 結論が出たことに安堵し、御剣は改めて成歩堂を見た。黒い目が昂奮に潤んでいる。胸に湧き上がる複雑な感情をどう言い表すべきなのか、御剣にはまだわからなかった。 成歩堂が口づけてきた。成歩堂にはまだ躊躇いがあった。昨夜の御剣の苦痛が記憶に残っているらしかった。だが御剣は既に決めていた。手を鈍らせる成歩堂を急かすようにして、御剣は初めて成歩堂を受け入れた。 激痛さえ自分が生きている証になりうることを、御剣は生まれて初めて知った。喉から切れ切れに呻きを発し、それを抑えることに意識を集中しながら、一方で己の雄身が熱く滾るのを自覚した。組み敷かれて精を発しながら、成歩堂の必死の形相を、霞む視界の向こうに意識した。 行為の後で、成歩堂は御剣を抱きしめて昨夜と同じく、ごめん、と幾度も繰り返した。御剣はけだるい腕で成歩堂の頭を抱えて撫でながら、君が悪いんじゃない、と囁いた。 御剣には本当にわからなかった。 なぜ成歩堂が幾度も繰り返し謝るのか。なぜそうしていながら成歩堂の腕は痛いほどに御剣を捕らえるのか。 わかっていたら慰めようもあるのに、と御剣は虚ろな心で成歩堂に同情した。 夕食は御剣が作った。翌日も日が高くなってから二人して起き出し、あけましておめでとうと言い合い、年末年始とは思えない乱れ具合に互いに笑い合いながら夕食の残りを食べ、またベッドに戻った。成歩堂の奇妙な罪悪感は昨日よりずっと薄れているように見えた。初詣には行かないのか、と成歩堂は少しだけ真顔で御剣に尋ねた。成歩堂にのしかかられて御剣は頭を枕に落としたまま、気のないように手を振った。 「私は喪中だ」 それは事実ではなかったが、成歩堂は納得したように引き下がった。自分を喪中と形容する御剣の心情を斟酌したらしかった。喪中なのにこんなことしてていいのかな、と成歩堂はおどけたように笑った。御剣も笑みを返した。それが衒いのない笑みに見えるといい、と御剣は願った。 躊躇いのなくなった成歩堂は貪欲なまでに御剣を求めた。御剣はできうる限りそれに応え、自らもわずかな快楽の欠片でも貪ろうと努力を重ねた。正月三日にようやく御剣は成歩堂の家を辞し、翌日の仕事始めに備えて仕度をした。集中力は戻り、勘は蘇り、御剣は自分は復活したと楽観した。だが床に就く段になって、御剣は体の芯が冷え切り、手が震えているのに気がついた。空調の温度設定を大袈裟なまでに上げ、風呂に浸かり、熱い茶を飲んではみても、体の震えは治まらなかった。 理由はわかっていた。寒さではない。 御剣は歯を食いしばり、手で顔を覆った。どうすればいいのかもわからずその場にうずくまって、まんじりともせずに夜を明かした。成歩堂と共にいた間遠ざかっていた悪夢が、眠ってもいない御剣の脳裡に甦り、狩魔豪の言葉と灰根高太郎の弾劾が胸を打った。御剣は目を閉じ頭を膝に埋めて、成歩堂のことだけを考えようとした。成歩堂の指、成歩堂の舌、成歩堂の声、成歩堂の瞳、そうしたものだけを記憶から呼び起こそうとした。だが無理だった。御剣は身を起こしたまま、携帯電話のディスプレイに成歩堂の電話番号を呼び出して、かけようかかけまいか逡巡しながら夜を明かした。実際に成歩堂の携帯を鳴らすことは結局しなかった。ただ、闇の中に成歩堂龍一の名と電話番号だけが明るく浮かび上がっている、その光景に何故か、少しだけ心が慰められた。 御剣は逮捕前と同じ時刻に家を出、検事局に向かった。 その一日は御剣にとっては全く以前と変わらぬ日だった。検事局長に有無を言わせぬ頑なさで辞表を提出し、退勤の際に引き上げる先が成歩堂の自宅であったことを除いては。御剣が成歩堂の家に辿り着いた十時ごろには、成歩堂はまだ帰ってはいなかった。御剣は、差し入れのつもりのビールとつまみの入った袋をぶら下げながらただ待った。やがて階段を上がってくる靴音が聞こえ、成歩堂が姿を現した。白い息を吐いて玄関の前に佇む御剣に、成歩堂は明らかに面食らっていた。 「どうしたの、御剣」 「なんでもない。ただ君の顔が見たくなっただけだ」 成歩堂の頬が赤らんだ。 御剣は、コンビニの袋を握ったままの右手を突き出した。 「取れ」 成歩堂はその言葉に困惑し、袋の中身を見て少しだけ得心顔になった。だが相変わらず、その面には戸惑いの表情が貼りついている。 「ずっと待ってたの?」 「そんなに長い時間でもない」 嘘だった。時計の針は十一時半を指している。 「電話してくれればよかったのに」 「・・・・・それは気づかなかったな」 成歩堂はようやく笑みを見せた。白い歯が覗く。 「君って、ときどき迂闊だよね」 御剣の手を取って、 「入ってよ。そのつもりで来たんだろ」 御剣の手の冷たさに成歩堂がほんの少し顔を顰めたのを、御剣は見逃さなかった。 成歩堂の家に寄るのは御剣の日課になった。 どんなに疲労していても、必ず御剣は成歩堂の家に向かい、接吻と情交を繰り返した。 早朝まで成歩堂と共に過ごし、始発電車と共に帰宅して着替えを済ませ、出勤する。御剣にはもともと不眠症の気配があったからか、慣れてしまえばどうということもなかった。成歩堂と共に過ごすようになって、むしろ寝つきがよくなったくらいだ。成歩堂のほうが帰宅が早い夜が多かったが、たまに携帯が鳴って、帰りが遅くなると伝えてくる日もあった。成歩堂はそれを気に病んだか、御剣に合い鍵を渡そうとしたが、御剣は固く突っぱねた。 「必要ない」 その云いように成歩堂は気を悪くしたようだった。 「なんでさ。毎日僕の家に来てるのに」 「私には資格がない」 検事局を去る決意は変わっていなかった。御剣の家の中は転居の為に少しずつ整理され、物が少なくなってきている。成歩堂にその事実を告げる気はなかった。彼の元から去ると決めていることも。 成歩堂は目を眇めて御剣を見つめ、何か言いたげに口を開き、閉じた。成歩堂は結局、問いただすのを諦めたようだった。 連日幾度となく体を繋ぎ、折り重なるように抱き合って眠った。どんなに疲労しているときでも成歩堂は求め、御剣は体を開いた。日を追うごとにゆっくりと、自分の声が変質していくのを御剣は自覚した。苦痛は遠ざかり、変わって常に快楽が体を支配するようになった。それは新しい発見で、自分と同様、この変化を成歩堂が喜ぶかと思ったが、彼の顔はむしろ次第に翳りを帯び始めた。情交に疲れ切って眠るとき、縋りつくように腕を絡めるのは大概成歩堂からだった。自分を抱きしめながら眠りに落ちるかつての友人を見やって、彼は自分が離れていくことを知っているんだろうと御剣は思った。 そしてそれが勝手な思い込みに過ぎないことも、よく承知してはいた。 御剣の出立が差し迫った休日の午前、ベッドから起き出して帰り支度をしている御剣に、成歩堂が声をかけてきた。 「帰るのか」 「ああ」 今日の午後には運送屋が来る手筈になっていた。御剣の最終出勤日は明日だった。不要な物を処分し、預けるべき物は預け、最終的にはトランク一つで町を去るつもりだった。 「・・・・行くなよ」 「それは無理だ。予定がある」 コートを羽織ろうとした御剣の手を、成歩堂が掴んだ。そこまで強引な自己主張を成歩堂にされたことはかつてなく、御剣は眉を顰めた。 「放したまえ」 「嫌だ」 いいかげんにしろ、と云おうとして、そこで初めて御剣は成歩堂の表情に気がついた。 成歩堂の目は明らかに荒んでいた。連夜の二人の行為は荒淫と呼ぶにふさわしく、成歩堂の顔色はよくなかった。だが疲労だけでは説明できない何かがさらに彼を暗い顔にさせていた。気にはなっても、それを詳しく問いただしている時間はない。御剣がそう思っていると、突如腕を引き寄せられて、無理矢理唇を奪われた。離れようとしたが、残る手が既に御剣の背に回されていた。 わざとらしい水音を立てて口内を掻き回され、痕が残るかと思うほどの強さで唇を吸われた。昨夜あんなに乱れた筈なのに、御剣の肢体は早くも情欲に浮き立った。全身を駆けめぐる熱に思考が混乱する。 「成歩堂、止せ」 ようやく解放された口から発せられた御剣の制止を完全に無視して、成歩堂は御剣の服に手をかけた。その手の力強さに、御剣は危惧を感じた。 「成歩堂!」 抗うという選択肢はなかった。後退ると背と足が壁にぶつかり、御剣は逃げ場を失った。 成歩堂は強引に御剣が着た服を剥ぎ、素肌に歯を立てていった。容赦ない愛撫で追い詰められ、力の入らなくなった下肢に成歩堂の手が伸びるに及んで、御剣はずるずるとその場に頽れた。成歩堂の手が躊躇いなく伸びて、御剣を屈服させる為に御剣自身を舌で嬲り始めた。 「アッ・・・・・」 御剣の竿はあっけないほど簡単に屹立した。快感に震えながら、射精を必死でこらえるうちに、畳みかけるように成歩堂の指が後孔に割り込んできた。押し広げられることに慣れたその場所は、今や痛みではなく露骨なまでの快楽を伝え、御剣は喉をのけぞらせて掠れた声を上げた。成歩堂の指と舌が御剣を翻弄し、堪えきれなくなった御剣はついに精を放った。だが成歩堂は追及の手を緩めず、吐き出された精液と自らの唾を潤滑液代わりにして、さらに御剣を煽り続けた。 「成、」 跪いた四つ這いの姿勢を取らされ、御剣は最後の抗議を試みた。家に戻らねば業者が仕事にかかれない。だが、本数を増やした指が御剣の内部深くに穿たれると思考は意味を成さなくなり、理性は弾け飛んだ。背とうなじが舌を這い、指が抜かれ、足を高く掲げられて成歩堂自身で突き上げられる頃には、御剣は自ら腰を揺らめかせて嬌声を上げていた。 それから如何ほどの時が過ぎたのか。疲労の淵から目覚めた御剣が枕から顔を起こすと、窓の向こうにはすでに夕闇の帳が降りていた。御剣は息を吐いて諦念と共にその状況を受け入れ、傍らで横になっている成歩堂に目をやった。 寝ているのかと思っていた。だが違った。 成歩堂は御剣を見ていた。その表情は暗く険しく、およそ普段の彼とは似ても似つかぬ顔つきだった。 御剣は欲されることを恐怖した夜を思い出した。 だが成歩堂は御剣から目を逸らし、風呂が沸いているとだけ告げた。そして寝返りを打ち、御剣に背を向けてそれきり黙りこんだ。 御剣は体を起こして浴室へ向かった。成歩堂に剥かれて散乱した衣服を途中で拾い集めながら。 ズボンのポケットから携帯電話が零れ落ちた。マナーモードに設定された携帯のディスプレイは、不在着信が六件あったことを告げていた。いずれも運送屋からの連絡だろう。予定を取り直さなくてはいけないな、と御剣は考え、それきり運送屋のことは忘れた。 手早く風呂を浴びて脱衣場から出てくると、そこに成歩堂が立っていた。 面に現れた表情は、先ほどとは一転していた。眉が苦しげに歪んでいるのは変わらなかった、だが目に表れているのは、怒りではなくおそらく悲嘆の色だった。 成歩堂が苦渋に歪んだ口を開いた。 「おまえ、どこに行こうとしてるんだよ」 御剣は硬直した。成歩堂やその周辺に、自分が去ることをちらとでも漏らしたことはない。なぜ、どこから情報が漏れたのか。こんなにも動揺する自分に驚き、そして、なぜ成歩堂に黙っていたのか、今までその理由を考えもしなかったことに気がついた。 「おまえ、おかしいよ。どうしちゃったんだよ」 成歩堂は御剣の動揺にまったく頓着していない様子で、彼に近寄ってきた。気づきもしていないのだ、ということを御剣が理解した時には、成歩堂の手が御剣の頬に伸ばされていた。半日前の強引さはかけらもない、縋りつくかのような頼りなさだった。 「僕はおまえを救えなかったのか?おまえは無罪で、無実で、ようやくそれをおまえも納得したと思ってたのに。そうじゃなかったのか?」 云わんとすることの意味がわからない、そう告げようとして、開きかけた口を閉ざすように成歩堂の指が唇に触れた。 「僕は君を取り戻したかったんだ。おまえの為じゃない、僕の為に、おまえがおまえでいられるようにしてやりたかったんだ。そういうおまえを、昔と今を繋げられる君を、僕は見たかった」 「成歩堂」 「だけどおまえはどんどん僕から遠ざかる」 成歩堂の大きな目に涙が湧いた。 「事件は解決したのに。こんなに傍にいるのに。毎晩触れて、おまえを抱いて、だけどおまえがわからなくなるばっかりだ」 成歩堂の目尻から涙が筋を作った。御剣にはようやく得心がいった。やはり成歩堂は御剣の計画を知らない。ただ心理的距離のことを言っているだけだ。 心理的距離。 「こんな筈じゃなかった」 成歩堂の嘆きを、御剣はぼんやりと聞いた。 「昔、おまえを追いかけるのは簡単だったのに。苦しかったけど、単純だった。今までは。それが今ではこんな・・・・・僕にはもう、どうしたらいいかわからないよ」 御剣は云おうとした。毎晩私をこの手に抱いているではないか。触れ合う肌こそが、二人の距離を現しているではないか。 だがそれが間違いであると心の底ではわかっていたので、御剣は黙ったままだった。 「僕は君に、好きだってことさえ云ってない」 成歩堂が御剣の首に腕を回す。御剣はゆっくりその体を抱いた。 肩に置かれる額を、縋るようにしがみつくその腕を、初めて御剣は愛おしいと思った。 「私は死ぬんだ」 御剣はそっと呟いた。 その言葉が成歩堂の耳に届いたかどうか。 自分の心の一部が既に死んでいることに、ようやく御剣は気がついた。 そして御剣が心に空洞を抱えていることを、成歩堂はとうの昔に看破していた。 「こんな筈じゃなかったんだ。キスやセックスや、・・・・・したくなかったと云えば嘘になるけど、そんなことよりもっと、おまえと話したり、笑いあったり、穏やかな時間を過ごしたかったのに」 涙につかえつかえ、成歩堂は云った。 御剣は黙って、成歩堂の肩に頬を置いた。 「僕がこんなに君を好きじゃなかったらよかったのに。君に欲情したり、嫉妬したりしなければ、おまえを救えたかも知れないのに。ごめん。ごめん、御剣。君といると、僕はおかしくなっちゃうんだ」 しゃくり上げながら成歩堂はそう云った。御剣を抱き締める腕の力強さと、肩を濡らす涙の熱。 ゆっくりと伝わる何かを、御剣は確かに感じ取った。 「謝るな」 あやすようにゆっくりと、成歩堂の背を手でさすった。 「君のせいではない。君には感謝している」 この言葉は真実だった。成歩堂には決して伝わらない真実だ。明後日には、御剣がどんな選択をしたのか、成歩堂は思い知らされる破目になる。その時を想像して、御剣は心を痛めた。 自分の為ではなく、成歩堂の為に。 「私も君が好きだ」 その夜初めて、二人は情を交わさずにただ体を並べて眠った。 友人同士のように。 翌朝御剣は成歩堂宅を辞し、始発を待って電車に乗り込んだ。年が明けてからの習慣となったこの行程も今日が最後だ。仕事納めの今日の夜は、成歩堂の家に戻るつもりはなかった。去り際、成歩堂には結局、いつもどおりの挨拶以外は告げなかった。成歩堂が御剣を怖れ、成歩堂自身を怖れたように、御剣もまた自分自身と成歩堂を怖れていた。 車両には、御剣のように姿勢正しく座っている乗客は殆どおらず、誰も皆しどけない姿を晒している。高架を渡る列車の窓には自分の姿がくっきりと映っていた。その奥を見定めると、黒い影となったビル群が流れるように現れては去る。ビルは次第に影を濃くし、空はゆるやかに明るさを増してきていた。 紫紺の闇は西へ追いやられ、朝焼けがゆっくりと窓の向こうを占拠しつつあった。黒、紺、紫、緋、赤、橙、白。何とも形容しようのない色が空に広がっていた。冬晴れの空は雲一つなく、やがては火のように赤い太陽が顔を出すのだろう。 御剣の手の甲に、滴がぽたりと落ちた。 思わず顔に手をやった。拭った手の腹に涙が凝っている。御剣は瞬いた。涙の粒がもう一つ、膝へと落ちた。 涙は途切れることなく流れ始め、御剣のコートを汚していった。その水滴の痕を、ぼんやりと御剣は見ていた。 自分は死に、そして再生する。 三年間しかいなかった大学の講義で、太陽は毎日死んで甦るという信仰があった、と聞いたことがある。朝日はその都度新しい太陽なのだと。宗教学か民俗学か、いずれにせよ何の興味も湧かない、教養科目の講義だった。その話をなぜ、今更思い出したのか。 黎明は去り、空はいっそう明るくなってきていた。 御剣は姿勢を正して座り直し、まっすぐに窓の外を見据えた。車内灯に照らし出されていた自らの影は次第に薄くなってきている。 昨夜の成歩堂に遅れてやってきた涙を、もはや拭うことはしなかった。 自分は変容し、変質する。それに必要なのは時間で、故に今自分は空洞なのだ。 変質する過程を、その為の足掻きを、御剣は誰にも見られたくなかった。 だが自分は帰ってくるだろう。御剣にはその予感があった。 自分が変わるきっかけを与えたのは成歩堂だ。強情で単純で極端なお人好しの、たった十ヶ月間の幼馴染み。 君は私を救った。御剣はそう口の中で呟いた。 今は告げることはできない。だが機会があれば、それが成歩堂に伝わることもあろう。 君から貰ったのは可能性だ。自分の未来を取り戻し、過去を修正し、現在を変えていくことができると教えてくれた。 涙が頬を流れるに任せ、御剣はただ、まっすぐ座っていた。 電車は甲高い音を立てて河口を渡りつつあった。 空と水面に、二つの太陽が浮かんでいた。 生まれたての赤子のような、力強い火の色だった。 |
| (了) |
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