夜見る海の夢
成歩堂×御剣(逆裁1後)

 





 ようやく眠ったと思ったら、またしても溺れる夢を見た。
 人混みの中に去ってゆく後ろ姿は紛れもなく友人のもので、声を限りに名を呼んだ。
「御剣!」
 彼は振り向かない。
 彼は答えない。
 彼には声は届かない。
 やがて彼は消えた。周囲の人影と一緒に。世界が暗転し、何も見えなくなる。
 体の周りが冷たくて、僕は水中にいることを自覚する。視界がゆっくりと回復する。ここは海だ。自分で流した涙の海に、鼻の下までどっぷり浸かっている。
 ちゃぷん、と音を立てて波が僕の顔を浚い、僕は一息に肺の空気を吐いた。
 とたんに水面がぐんと上昇する。上方へ向けて伸ばした手はまるで空気を掴めず、僕の体は水槽に投げ込んだ文鎮のようにゆっくりと沈んでいった。
 僕はなす術もなく、はるか上方の海面を見やる。手足をばたつかせたところで、浮上できないのは分かりきっていた。
 息が出来ない。苦しさに体をもがき、上体を痙攣させるように足掻いたところで目が覚めた。


 布団から顔を出し、眼前に置かれた目覚まし時計で時間を確認する。午前三時。布団に入ってから二時間と経っていない。
 今いる場所が夢に見た海中でなく、自分の部屋であることに安堵して、深い息を吐きながら顔の汗を拭う。手の甲にべっとりとついてくるのは寝汗だけで、夢の中であんなに流した涙は一滴もない。
 まんじりともせず横になっているか、浅く短い眠りのうちに溺れる夢を見るか。
 それがここ一週間の、僕の夜の習慣となっていた。
 今朝はもう眠るのは無理だ。早すぎても何でも一日を始めることにして、冷え切った部屋の中を汗を流しにユニットバスへ向かう。寝室を去る前に、時計のベルのスイッチを切った。午前六時にセットされた目覚まし時計は、ここ一週間鳴ったためしがない。


 二週間前。
 御剣がいなくなったということを、僕は刑事課でイトノコさんから聞いた。
「いなくなったって、どういうことです?」
「そのまんまッス」
 僕には事態がよく飲み込めない。
「辞職願いを出したッスが、人手不足もあって受理されなかったッス。やむなく検事は休職届けを」
「なんだ。じゃあ、帰ってくるじゃないですか。どこに行ったのかな。長い旅行か何かですかね?」
 刑事の表情に比べ、僕の声は不気味なほど明るく響いた。
「自分は、御剣検事はもう戻ってこないと思うッス」
 そりゃまたどうして、と問う前に、イトノコさんが紙切れを僕に手渡した。
「アンタに渡して欲しいと、検事から自分に置き手紙が」
 不穏な気配を感じ取ったのは、刑事の朴訥な顔が痛ましいとも呼べるような表情に歪んでいたからだ。
 僕は二つに畳まれたA4サイズの紙を開き、ただ一行書かれたそれを読んだ。
 そこにはこうあった。
 検事・御剣怜侍は死を選ぶ。




 冬の寒気に凍えた体を、熱めの湯が叩く。
 シャワーを浴びながら、僕は茫然とあいつのことを思い出す。最近仕事中以外は、いつもあいつのことを考えている。
 公判中は臆面もなく睨みつけてきたくせに、一旦法廷から出ると決まって僕の目から視線を逸らした。
 僕を避けているのはわかった。僕と共に、何か思い出したくない過去を思い出して、そして二度と会いたくないと僕に云った。
 だけどわかってたんだ。わかってた。あいつは自分は変わったと云ったし僕もそう云った、そしてあいつは心の底から自分は昔とは違うと思いこんでいたけれど、変わらぬ部分も確かにあった。
 あいつの昔を知っている僕にはわかっていた。
 だから弁護したいと云ったんだ。
 あいつは僕にとってまだ友達だったから。
 あいつは僕にとってまだ恩人だったから。
 あいつも最後にはそれに納得した、馬鹿馬鹿しくも僕はそう思いこんでいたんだ。
 だが今、あいつが借りていた部屋は引き払われている。
 あいつの番号だった携帯電話は解約されている。
 最初は意味がよくわからなくて暢気に構えていた僕も、さすがに気づいた。
 あいつは今まで周りにあったもの全てを捨てて逃げたんだ。
 僕に何の相談も、一言の断りもなく。
 そんなことをされる友人がどこにいる?
 結局僕はあいつにとっては価値のない人間だったんだ。

 自転車通勤は便利だ。
 始発もまだ走らない踏切を、コートとマフラーに埋もれた僕は自転車を漕いで渡る。朝焼けさえ始まらない空は真っ暗で、そんな時間から事務所に向かう僕もまたどうかしているんだと心の隅で漠然と自覚する。
 何が悪い。
 今の僕に残されているのは、事務所と仕事だけだ。
 頭の芯がぼんやりと鈍ったようになっているのは、あいつの失踪がショックだからじゃない。
 単に風邪をひき始めているだけだ。
 真宵ちゃんが年内に事務所を引き払ったのは、ある意味ありがたいことだった。事務所に着いた僕は一人で仕事に没頭し、書類を整理し、辺りを片づけ、必要な電話をかけまくった。
 気がつくともう昼だ。朝食も食べていないのに、食欲がまるで湧かない。近所のコンビニで見繕ったサンドイッチを一切れ囓ってみたが胃が受けつけず、すぐに戻してしまった。
 仕方なく、水だけを飲む。
 事務所の電話が鳴った。
 3コールほどで僕の手が受話器を掴む。
 あいつからだったらいいな。そんなわけないけど。
「はい、成歩堂法律事務所」
「うわ。すごい声」
 聞き慣れた高いトーンは御剣のものではなかった。
「真宵ちゃんか。今時間は学校の授業じゃないのか、不良」
「なるほどくんが忘れてるなら思い出させてあげるけど、今日は祭日だよ。学校はお休みだよ、なるほどくん」
 電話の向こうから得意げな応答が帰ってくる。元気そうだな。  
「なんかすごい声してるよ。だいじょうぶ?」
 声?僕の?
「どこがさ。元気そのものだろ」
「なるほどくん、今の自分の声、一回録音して自分で聞いてみた方がいいよ。溶けたアイスクリームをマヨネーズの容器で絞り出してるような、そんな感じの声だよ」
 どんな感じだよ。
 笑おうとして、喉の奥が引きつった。
「風邪だよ。年末忙しかったろ。その皺寄せが、今体に来てるんだ」
「そうかなぁ。そんな感じの声じゃないよ」
 真宵ちゃんのこだわりが鬱陶しい。気遣ってくれるのはありがたいが、今の僕には必要じゃないんだ。
「何かあったの?」
 その声のそのフレーズは、あまりにも似ていた。
 僕の師匠だった千尋さんに。
 思わずぐらりと揺れた上体と心に、自分で困惑する。
 電話の向こうにいるのは頼れる先輩じゃない、いたいけな女子高生だ。それを必死で自分に言い聞かせ、無理に明るい声を作る。
「何もないよ。それより、何か用事があったんじゃないの?」
「あーそうそう。えーとね‥‥‥」
 千尋さんだったら決して見逃してはくれない話題の逸らし方だったが、真宵ちゃんはころりと乗ってくれた。
 用件を済ませ、最後に真宵ちゃんは云った。
「じゃぁ。そっちのみんなによろしくね」
 きみの云う「みんな」には、御剣も含まれるのか。
 そんなことを漠然と考えていて、耳に当てて手に持ったままの受話器がツーツーと鳴り続けていることに、暫くの間気づきもしなかった。
 それから日付が変わる頃合いまで、翌日の審理の前準備をしていた。
 今日一日かけた時間の割には、仕事の効率がずいぶん悪いような気がしたが、きっと気のせいだ。


「異議あり!その証言は、さきほどの証人の発言と明らかに矛盾しています!」
 少しくたびれた感のある中年の検事と対峙した僕の担当する公判は、いとも簡単に幕を引いた。
 審理後の控え室で、僕の依頼人が頭を下げて礼を云う。
「いや、たいしたことじゃありませんよ」
 公判がうまくいった日の、いつも通りの光景に、今日は依頼人が少し顔を顰めて、
「ときに、成歩堂先生、少し休養を取られたほうがいいですよ。お顔が真っ青ですし、お声も」
 なんでみんな、同じようなことを云うんだ。僕は少し気分を害した。
「大丈夫ですよ。昨日も知り合いにそう云われましたがね、僕は常態がこれですから」
「そうですか?いえ、そんなことはありませんよ。打ち合わせの時にお会いしたときはもう少し元気そうでいらっしゃいましたよ」
 この依頼人と打ち合わせたのは一週間以上前。まだあいつの失踪の意味が飲み込めていなかった。‥‥いや、あいつとは関係ないはずだ。これは風邪なんだから。
「‥‥そうですね、風邪なのかも知れません。ともかくも、今日の審理が終わって、少しゆっくりできますよ。お気遣いありがとうございます」
 社交辞令が頭を使うことなく、僕の口から流れていく。


 夕方を過ぎる頃には、僕の体は本物の風邪の様相を呈していた。
 悪寒が止まらない。これは、二、三日は寝込むことになるかも知れない。
 昨日とは打って変わって早めに事務所を引き上げ、帰り際に薬局に立ち寄って栄養剤と風邪薬をたくさん買い込んだ。家に辿り着き、布団に転がり込む頃には発熱が始まっていて、僕は頭痛に唸りながら風邪薬を喉に流し込んで布団を被った。
 また夢を見た。
 今までとは違う夢。
 正確には夢じゃない、僕が今まで押さえ込んでいた深層心理の表出だ。


 御剣の罵声が呀する。
「ここは法廷だ。いいかげんな発言はやめてもらいたいな。
 ‥‥シロウトめ!」
 いいかげんな気持で法廷に臨んでいたのは君じゃないか。そうでなかったら、こんなふうに検事の仕事を投げ出すはずがない。辞めるなら辞めるで、段階を踏んで、準備を整えた上で辞職なり休職なりするべきだ。
 僕に弁護されたことがそんなに厭だったのか?僕に救われたこと、僕によって無罪になったことがそんなに厭だったのか?
 そんなに僕が嫌いだったか。
 少年の君が実現させるべき夢として語っていた職業に、この僕が就いたことがそんなに悔しかったのか。
 それとも狩魔検事のせいか。師匠が逮捕されただけで、君は拠り所を失って消えてしまうような、そんな脆弱な検事だったのか。
 父親を失ったことか。その真相が明らかになったからか。
 思い浮かぶいくつかの事象は事象のまま。ばらばらに途切れたそれらを統合する力が今の僕には欠けている。
「もっとよく考えて。証拠が足りないわ」
 千尋さんの声がする。
「何か重大な見落としをしているのかも」
 僕にもわかってる、御剣の行動を分析するには僕の視点には何かが足りてない。
 だけどいいんだ、そんなことはどうでもいいんだ!
 重要なことはただ一つ。
 あいつは僕を裏切った!
「駄目よ、なるほどくん」
 あなただって、彼に会うために弁護士になったのでしょう。弁護士になる動機としては不純だわ。
 きっかけはそうだった、でもただのきっかけだ。あれは真宵ちゃんの弁護をする前で、千尋さんに会う前で、何より僕は拠り所のない人の味方になってあげたかったんだ。御剣が僕を助けてくれたときのように。
 なのにどうしてあいつが検事を捨てるんだ!検事だけじゃない、全部を捨てて、誰の手も届かないところへ行ってしまうんだ!

 凶暴な怒りで目が覚めた。熱と昂奮で血圧が上がって、頭がぼうっとする。
 目覚まし時計の時間は午前0時。
 枕元で電話が鳴った。僕はひったくるように受話器を取る。
 御剣に違いない。乱暴に過ぎるその直感は、おそらく発熱のせいだったのだろう。
「御剣!」
 相手が口を開く前に、僕は受話器を口に押し当てて叫んだ。
 電話はかちりと切れた。
 昨日の事務所と同じ、通話切れを示す電子音が耳を打つ。
「うっ‥‥‥」
 喉の奥から呻きが漏れた。
 海が押し寄せる。
 僕はついに泣いた。
 二週間かけて溜め込んだ涙を、僕はついに吐き出した。両手に受話器を握りしめて、布団にくるまって、熱に冒されながら。
 子供みたいに大声を上げて泣いた。構やしない、どうせ誰が聞くわけでもないんだから。
 泣いたことに驚いて、泣いたことに安堵した。あいつが消えたショックをこうやって表に出せるようになったのなら大丈夫、僕は立ち直れる。
 それがどんな形でも。
 夢の中で海となって僕を責めた涙は、こうして急激に体の外へ流れ出ていった。泣きじゃくりながら、横向きに丸くなって受話器を抱えたまま、僕はまた夢の中へ戻っていった。


 海はもうどこにもなかった。
 潮が引いたばかりの湿りきった砂浜で、僕はしゃがみこんで浜辺に穴を掘っている。
 掘った穴の奥に、ゆらゆらと水が揺れている。僕の涙の最後の残滓。
 水の底に僕は何かを埋めた。
 あいつはもう、死んだんだ。
 あいつが死にたいなら死なせてやる。
 あいつを葬って、僕は立ち直る。
 この穴から時折何かが砂を割って芽吹き、枝を伸ばしたとしても。
 それは憎しみや恨みといった感情のはずだ。
 懐かしく思うことなんてあり得ない、そう思うことは僕には辛すぎるから。

 あいつはもう、死んだんだ。



 熱は二日下がらなかった。
 僕は布団を退き被ったまま、スケジュールとにらめっこをして電話でアポを取り直し、どうにかこうにか一日半の休暇を獲得した。電話をかけ終わった後は電話機のプラグを抜き、携帯の電源を落として、一週間ぶりのきちんとした睡眠を貪った。目が覚めてちょっと泣き、冷蔵庫から消化の良いものを泣きながら少し食べ、また眠った。今度は夢は見なかった。
 それから三日で風邪は恢復した。僕はまた事務所と裁判所を行き来し、依頼人と話し、裏を取り、証拠を探し、そうするうちに夜の涙も間遠になり、ついには消えていった。



 僕は御剣を忘れた。


 それはただ単に自分の中の何かを殺していただけだった、と遅蒔きながら気づいたのは、それから一年も経った後。
 あいつがひょっこり帰ってきてからのことだ。
(了)
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