30のお題

 


1.六法全書

2003/12/29
狩魔豪(逆裁1-4前)

 書棚の奥の六法全書に、一枚の紙片が挟まっていた。
 狩魔は怪訝な顔でそれを取り上げる。
 年末を控え、自らの書斎を塵一つなく磨き上げる作業をしている最中だった。
 元来潔癖である狩魔の部屋には、例え書棚の奥と雖も埃など積もってはいない。ただ狩魔にとって、己の仕事場が完璧に整えられていることは非常に重要なことだった。ゆえに単なる習慣という以上の熱心さでもって、狩魔はもとよりきちんと片づけられた書斎を、さらにいっそう細かく清掃していく。
 その六法全書は、ポケット六法を含め幾冊もある狩魔の蔵書の六法の中の一冊に過ぎない。ただそれをなぜこうも奥まった場所に隠すように置いたのか、それが不思議でつい机の上に取り出した。
 頑丈な装丁の表紙を艶やかなオーク材の机上につけて、漫然と頁をめくっていたときに、その紙片を発見したのだった。
 その紙片に書かれた文字が、現在の狩魔には既に読めなくなっていた。
 胸ポケットから眼鏡を取り出し、鼻の上に乗せてから再度紙片に目を落とす。
 そこに書かれたのは狩魔自身の字だった。精密で整った、やや神経質とも取れる字体。だがその文字は常の狩魔らしくはなく、紙の上で踊っている。それを書き付けたときの狩魔の動揺を具現するかのように。
 三つの言葉が書きなぐられていた。
「御剣信 弁護士 吾輩の」
 それを目が認識した途端、右肩が疼いた。左手がくしゃりと音を立て、気づくと紙片を握り潰していた。
 動悸がする。眩暈も。狩魔を追い詰め完璧な人生を決壊させた男の名、それを唐突に目のあたりにしたせいだった。狩魔は歯を食いしばって机に寄りかかり、気を落ち着かせようと息を吐いた。幾度か喉から呻きが漏れ、こめかみを痛いほど打った脈動は、しかし狩魔がじっと堪えるうちに緩やかに落ち着いていった。
 狩魔はようやく安堵の吐息をついた。
「御剣め」
 忌々しげに吐き捨て、その言葉を口にのぼせたことで、狩魔はもう一人の御剣を思い出した。
 今の狩魔にとっては、御剣と云えば御剣怜侍のことであった。
 父の死後犯罪者を憎んで検事になった若者。狩魔自身に師事し、彼と同じく不敗を誇り、天才の名を恣にしてきた若手検事。
 今までは。
 狩魔に学んだ威圧的な態度と鋭い舌鋒、生い立ちによる陰影を背に負う青年が、しかし二度の敗北を経た今、変質しつつあるのを狩魔は見て取っていた。
「御剣め」
 狩魔はもう一度呟いた。
 その声は嗄れていた。
 狩魔は握りしめたままの左手を開き、その紙片を広げていく。
 丹念に皺を伸ばすと、再度自らの文字が現れた。
 御剣信。
 弁護士。
 吾輩の。
「吾輩の」の後に何と続けるつもりだったのか。我が事ながら狩魔は思い出せない。屈辱、汚点、辛酸、疵。何とでも入れられる。これらの言葉を書き付けた記憶は狩魔にはなかったが、いつ、どんな状況で書き記したかは容易に想像がついた。
「吾輩の完璧を傷つける者は許さん」
 僅かに震えの残る左手で、胸ポケットから万年筆を取り出した。
「吾輩の完璧を否定する者も」
 右手で紙片を押さえ、その上に並んだ三つの言葉を黒く塗り潰していった。
 真っ黒に滲んだ紙片を丸め、屑籠に投げ入れる。その軌跡を目で追いながら、狩魔は新たな復讐を思いついた。
 御剣信の息子、御剣怜侍を罪に陥れる復讐を。
 たった今湧き上がったばかりの考えを頭の中で転がしながら、組み立てた青写真は実現が可能かどうかを計算する。意識せず面にのぼった笑みは、計画完遂への狩魔の自信を示していた。
「御剣め。見ているが良い」
 弁護士だった男に対してか。検事である男に対してか。
 狩魔自身の心には、遂に意識されないままだった。
 狩魔は机上の六法全書を閉じてもとの場所に戻し、椅子に座り、引き出しから便箋を取り出すと、几帳面な字で何事かを書き付け始めた。
 清掃のことなどは、狩魔の頭の中から綺麗に消え去っていた。




                                      (了)






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