2.机
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2004/01/02
成歩堂(少年時代) |
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ある朝登校すると、転校生の机に花瓶に活けた花が飾られていた。
四年間使い古し、いいかげんくたびれた感のある黒いランドセルを背負ったまま、成歩堂は黙ってその机と花瓶を見つめた。
机には油性マジックで「みつるぎれいじ じょうぶつ」と書いてある。その拙い字体は机の使い主のものでは無論なかった。
机の主はもういない。
新学期が始まっても、御剣は学校に姿を見せなかった。始業式から数日後の朝、彼が急に引っ越していったことを、成歩堂を始めとするクラスメイトは担任教師から知らされた。
御剣が引っ越した理由は子供たちには知らされなかった。幾人かの限られた大人だけがその仔細を知り、口を硬く閉ざしていた。だが子供たちは直感で、級友の転校に何か不穏なにおいを嗅ぎつけていた。
それが間接的に、今回の悪質な悪戯に関係しているのだろう。
凍ったように動かない成歩堂の背中に、しのびあう笑い声が響いた。
この悪戯は机の主であった御剣とそれ以上に、御剣の友人であった成歩堂に仕向けられたものだった。
御剣は成歩堂の友人である以上に恩人だった。絶望の縁に立たされた成歩堂を、御剣の強い言葉と態度が救ってくれた。教室でそれまでむしろいじめられっ子として認識されていた成歩堂の地位はこの半年、御剣という味方を得たことで急激に上昇していた。
御剣が去ったことで成歩堂の立場はまたも弱くなる。それを意地悪く見せつける意図が、悪戯の中に見え隠れしていた。
もともと転校生だった御剣は十ヶ月しかこの机を使っていない。机は持ち主の性格を反映して几帳面に用いられてきた。それが今、机の天板には心ない落書きがされ、薄汚れた花瓶に色褪せた花々が無造作に飾られている。落書きの上にはこれ見よがしに、複数の上履きの足跡さえつけられていた。
成歩堂は体を巡らして悪戯の主犯を捜した。
体の大きな、クラスの徒党のリーダーである少年が自分の席に座って、にやにや笑いながら成歩堂を見ている。
成歩堂は臆しもせずにその少年に近づいた。
少年の机の脇に下げられた雑巾を手にとって、それを少年に突きつける。
「拭け」
その右手がかすかに震えた。
相手の少年は成歩堂が怖がっているのかと思ったらしかった。だが事実は違った。
「御剣の机の上を拭いて、きれいにしろよ」
成歩堂の声もまた震えていた。怒りで。
一瞬鼻白んだ少年はすぐに激怒した。
「なんでおれがそんなことしなきゃいけねんだよ」
右手で成歩堂の腕ごと、雑巾を振り払った。成歩堂は自分より頭半分も背の高い少年を睨みつける。
「きみがやったんだろ」
「おれじゃねえよ!」
意外な成り行きに、教室の誰もが皆押し黙って事の推移を見守っていた。
朝のチャイムにはまだ時間があるとあって、教室にまだ教師は姿を見せていない。
いつも穏和に、にこにこしているだけの成歩堂がこうもリーダー格の少年につっかかるとは、誰も予想していなかった。
「きみだ。あれはきみの字だ」
成歩堂は一歩も譲らない。御剣が乗り移ったかのような強情さだった。
ついに相手の少年が痺れを切らした。
「いいかげんにしろってんだ!」
両手で成歩堂の胸を突き飛ばした。成歩堂はいとも簡単にバランスを崩して尻餅をついた。
成歩堂が少年を睨み上げた。誰も想像していなかったような素早さで飛び起きると、少年に向かって突進した。成歩堂の体当たりをくらった少年は椅子から落ちて腰を打った。
「おまえだろ!おまえじゃないか!」
床の上の少年に、成歩堂が喚きながら殴りかかった。少年の上にのしかかり、握った拳で相手をめちゃくちゃに打ち据える。成歩堂の剣幕に、少年は防戦一方に追い立てられていた。
成歩堂は怒っていた。生まれてから今まで経験したことさえないような怒りに捕らわれていた。成歩堂にとって御剣とはそれほどに重大な存在であったのだ。
「あいつは死んでなんかない!」
学級裁判のときと同じく、成歩堂の頬には涙が伝っていた。
騒ぎを聞きつけた教師が教室に飛び込んで成歩堂を押さえつけるまで、成歩堂は少年を殴り続けた。
同日の夕刻。
下校後、成歩堂宅を訪れた担任教師は、ともあれ相手の少年に怪我をさせたことを謝るようにと成歩堂を説いた。
「いやだ」
泣き腫らして赤い目をした成歩堂は、頑として首を縦に振らなかった。
「謝らない。ぼくは間違ってない」
教師は更に成歩堂を説こうとして、そのあまりにも大人びた表情を見て言葉を飲んだ。
「先生は、前も間違ったよね」
学級裁判のことを云っていることは容易にわかった。
成歩堂の黒い大きな目が、ひたと担任を見据えている。
「あのとき、ぼくは心の中で『違う』と思ったけど、御剣に謝ろうとしてた。でも御剣がそれを止めたんだ。堂々としてろ、って。正しいってどんなことか、ぼくは知ってる。だからあいつには謝らない」
それはおよそ子供らしくない眼差しだった。教師でも間違うこと、大人でも過ちを犯すこと、自分の直感を信じることを知っている目だった。弾劾ではなく、真実をつきつける厳しさを持つ目だった。喧嘩相手の少年が御剣の机に悪戯をしたことは間違いなく、だとすれば理は成歩堂にある。突き飛ばしたのも向こうが先なのだ。
教師は自分に非があることを心の中で認めた。
「でも、彼に怪我させたのは変わらないのよ?そんなことはしてはいけないわ」
成歩堂の目がわずかに曇った。
「うん、そうだね。それはわかってる。もう喧嘩はしないよ」
その言葉の意志の強さは、今までの成歩堂には全く無かったものだった。
半年前の彼だったら、こんな受け答えをすることは決してなかっただろう。
そう悟った教師の胸は震えた。
子供がどんなときに成長するのか、それを目の当たりにしたからだった。
級友の御剣怜侍が目の前から消えた冬。
成歩堂の少年時代は緩やかに終わり始めていた。
(了)
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