2.切符
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2004/09/14
冥+糸鋸(逆裁2-4後) |
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「Holy shit!」
冥の艶やかな唇から強い呪いの言葉が漏れ、空港に響いた。
いよいよ日本を発とうとして、重大な忘れ物をしたことに気がついたからだ。
自宅を出るときに羽織っていた黒いカシミアのコートが今は手元にない。
大事なのはコートではない。ポケットの中にあった、JFK空港行きの飛行機のチケットだ。
「レイジ・・・・!」
途方に暮れて、つい先ほどまで自分の前にいた男を目で捜す。だが彼の広い背中は、雑踏の中でついに見つかることはなかった。
「迂闊だったわ・・・・」
腕を抱えて唇を噛む。
予約したフライトはあと15分足らずで搭乗が始まる。とてもではないが取りに戻っている時間などなかった。
「あのヒゲのせいで・・・・!」
冥は受け取ったばかりの鞭を強く握りしめた。
ようやっと静まったばかりの涙腺が再び存在を主張し始めている。冥は歯を食いしばってそれを押さえ込もうとした。
朝、空港に向かおうと自宅を出たところで、携帯に御剣怜侍から電話が入った。彼の要請を受けて、糸鋸の事故現場まで足を運んだ時には確かにコートを着ていた。コートを着ていた記憶がなくなるのはその後だ。
糸鋸の車は大破していて、駆けつけた冥も同僚の刑事たちも真っ青になったものだ。もとからオンボロではあった糸鋸の十年落ちのカローラはスクラップ同然だった。ドアをこじあけ、半ば気絶していた巨体を引きずり出してようやく、車の破損状態に比べれば運転者は奇跡的なほど軽傷で済んでいることを確認した。
安堵を押し隠しつつ救急車の手配を確認して、冥は裁判所へ急行したのだ。コートを忘れるくらいのショックは受けていて当然だった。
自分の不甲斐なさ以上に、糸鋸に対し腹が立つ。そしてそれは当然だと、冥は思いこもうとした。
「あの、ヒゲ!」
吐き捨てるように云ったところで気が済むわけではむろんない。涙に馴染んだ目からたちまちに熱いものが湧き出し、冥は悔しさと気恥ずかしさでいたたまれなくなって下を向いた。
どうしてくれるのよ。
今にも手で顔を覆って泣き出さんばかりになったとき、冥の耳に声が届いた。
「かるま検事ー!!」
遠いが懐かしい声。
振り向くと、ロビーの向こうから見覚えのある巨体が走ってくるのが見えた。
いつものコートは羽織っていない。それは今、自分のコートの替わりに冥の腕の中にある。
糸鋸刑事が息せき切って走り寄ってくる。
「狩魔検事!間に合ってよかったッス!」
糸鋸は冥の前に至ると、いつもの通りへらへらと笑った。事故の痕跡を残すものとては、頭に巻かれた包帯とYシャツのあちこちのほつれぐらいだろう。
「これ。忘れ物ッスよ」
糸鋸が差し出したのは、確かに冥のカシミアの黒いコートだった。
「ポケットにキップが入ってたから、慌てて病院から飛んで来たッス」
そこで初めて冥の顔を覗き込んで、目を丸くした。
「もしかして、泣いてたッスか?」
意識する間もあらばこそ、冥の右腕が跳ね上がった。
「そんなわけ、無いでしょッ!」
鞭は使わなかった。利き腕の左手は、まだ保護帯で首から吊られた状態になっている。右手で鞭を扱う自信は、さすがの冥にもなかったからだ。
したたかに張り飛ばされた頬を糸鋸はさすりながら、それでもにやにや笑うのをやめなかった。
「ハッハッハッ。狩魔検事も女の子ッスねえ」
「なにが云いたいのよ!」
「いやあ、張り手が堂に入ってるッス」」
この男の前に立つと、自分の強がりがひどく滑稽に思えるときがある。冥を見つめる目が時折、検事や狩魔に向けるべきそれではなくて、もっと弱い頼りない存在に向けられるような眼差しになると感じられるときがあるのだ。
「それがどうして『女の子』の証明になるのよ!」
「いやいや。とにかく飛行機の出発に間に合ってよかったッス」
糸鋸は相好を崩したままだ。それに猛烈に反発を感じながらも、一方で安堵している自分を発見して、冥は心中狼狽えた。
とにかくこの男に感謝はしても良い。その意は伝えるべきだ。
「糸鋸刑事」
その声は、冥が望んだほどには固い口調にはならなかった。
「はっ?」
「ちょっと屈みなさい」
「へ。なんでッス?」
「なんでって・・・・・」
聞き返されて冥は戸惑い、自分が何をしたいのかをようやっと自覚した。次に望む行動を認識するなり冥は赤面し、激昂した。
「アンタの背が高すぎるのよ!」
短距離から右手で鞭を繰り出した。狙いは過たず糸鋸の顔にぶち当たり、糸鋸は文字通り飛び上がった。
「ひいッ!」
「私が怪我してるからって油断してたわね!ヒゲ!」
冥の声に優越の響きが混じる。
もう一発、鞭が呻った。
「は・・・・はっ!相済まねッス!」
糸鋸は完全に屈服した。脂汗さえ垂らしながら背を丸めて、冥のほうに上体を屈めてくる。恐怖に竦めたままの首に、自分が引き出した結果でありながらなぜか苛立ちを覚えながら、冥は糸鋸のうなじを右手で捕らえた。そのまま素早く引き寄せる。
触れた途端、糸鋸が硬直したのは気配でわかった。
糸鋸の唇は煙草の臭いがした。
冥は構わず接吻を続けた。
糸鋸の手が、条件反射のように冥の肩に置かれた。素早い動きでありながら、冥の左肩を労るかのように優しい動作だった。
冥が己の唇を押し当てたまま、軽く糸鋸の唇をついばんだ。糸鋸の手が、壊れやすい飴細工にでも触れるかのように、そうっと冥の背中に回された。抱え込むのではなくただ支えるようなその触れ方に、冥は深い満足を覚えた。
唇を離しても、糸鋸は動かなかった。接吻の間保っていた姿勢のまま、硬直している。
「用件は以上よ」
頬が赤く染まっているのは冥にも自覚できた。糸鋸がようやく目覚めたかのように、わずかに身動きする。
「・・・・・・よ、用件・・・・・・ッスと?」
茫然としている刑事を、冥は睨み上げた。
「お礼よ。感謝を態度で表したの」
「・・・・・・・・・」
糸鋸の純朴な顔に、ようやく理解の色が見えた。
刑事の顔が急激に紅潮し、肩をそびやかすなり、
「か、狩魔検事!」
糸鋸は怒りだした。
「自分は日本人ッス!アメリカ式の挨拶は日本人にはしちゃ駄目ッス!ご、誤解を招くじゃないッスか!」
冥は頓着せず、糸鋸から渡された自分のコートを羽織りつつ、
「誤解?どんな」
なにげなく尋ねただけだったのだが、糸鋸はいっそう真っ赤になった。
「とにかく駄目ッス!相手がお婿に行けなくなっちゃうッス!」
冥は怪訝な顔で刑事を見つめて、
「わかったわ。もう日本人には感謝のキスはしない」
糸鋸は目に見えて安堵した。
「そう、それがいいッス」
「じゃ、もう行くわ」
「そうッスね。せっかく切符持ってきたのに、間に合わなくなっちゃうッス」
『キップ』というのは電車のチケットにしか使わないのではないかしら、と心の中で思いつつ、冥は踵を返した。
しかし最後、去り際に糸鋸を振り向いて、
「でも、あのキスは別にアメリカ式のつもりはなかったのよ」
妖艶に微笑んで見せた。
糸鋸はのけぞって、湯気が出そうなほど赤くなり、
「な、何スとオオオ!!」
その絶叫を背に、冥は黙ってロビーを後にした。
手には御剣から渡された鞭を握り、肩には糸鋸から渡されたコートを羽織って。
その唇には柔らかな微笑が浮かんでいた。
とうとう糸鋸に返さぬままになった彼のコートを、冥は軽く抱え直した。
「ゴミ箱に捨ててもいいけど」
持ち主の聞こえないところで呟いてみる。
「とりあえず、預かっておこうかしらね。今だけは」
(了)
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