4.携帯電話
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2004/10/19
あやめ(3-5前半) |
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その男を一目見た途端、あらゆる記憶は甦った。
闇が四隅にわだかまる古びた寺の一室で、女は男に再会した。
来るのはわかっていたはずだ。自分はそのように連絡を受けた。
だが驚きを隠すのに成功したとは到底思えなかった。救いがあるとすれば、相手の男も、自分の顔を見て負けず劣らず驚いていることだった。自分の表情を詮索する余裕があるとは思えない。
「・・・・・・夕食のお支度がありますので、失礼します」
軽く頭を下げてその場を逃げるように去った。
成歩堂龍一が食い入るように自分の背中を見つめていることを、痛いほど意識しながら。
彼が見ているのは「私」ではない。
彼が愛したのは「私」じゃない。
彼が憎んだのも「私」ではなく。
今も尚、記憶の中に住まわせている面影も「私」ではないのだ。
それでも自分が愛しているのは彼であることに変わりはなかった。
その夜、あやめはもう一度その男に会った。
消灯の鐘を撞く前に。
記憶とは違い、馴染んだ背広に身を包む一人前の「男」となった彼を、あやめは惚れ惚れと見上げた。
そう。この、彼を見上げるときの首の角度まで、鮮明に覚えている。
あれはもう何年も前の話なのに。
自分が彼に為した行為は裏切り以外の何物でもないのに。
なぜ自分の心は甘く浮き立つのだろう。
これから何事が起こるのかさえ知っている今でも。
不安に押し潰されているはずの己の胸が、熱く脈打っている。
「成歩堂さん。これは退魔の頭巾です」
あやめは己の被っていた頭巾を男に差し出した。
己への不安より、目の前の男への心配が勝っていた。
男の反応は鈍かった。あ、ともう、ともつかぬ応えを発して、反射のようにあやめの頭巾を受け取った。
だいじょうぶ。これでこの人は護られる。
耳朶まで赤く染まっている男を見上げながらあやめは思った。以前と変わらぬ部分も彼にはある。それを発見できたことが、何とはなしに嬉しかった。
あやめは頭を下げて成歩堂の傍を辞した。消灯の鐘を撞き終え、自室への廊下を戻ってゆく。
自室に着いてもしばらくは落ち着かなかった。夜闇の中で何が起きているのか気になって、明かり障子を少しだけ開けた。
突き刺さるような冷たさの外気と共に、雪が降り込んでくる。
遠くで雷光が走り、続いて雷鳴が追いかけてきた。
あやめは別室で休んでいるはずの成歩堂を思った。
あの人の場所を、これ以上姉に侵させはしない。
あやめは左手の袂をそっと右手で掴んだ。
そこには自分の携帯電話が入っていた。
この電話が鳴ったとき、自分の運命の歯車は新たに廻り出す。
あやめはゆっくり目を閉じた。
まったく唐突に、携帯電話は鳴りだした。
それが誰からの電話か、無論あやめにはわかっていた。
(了)
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