30のお題

 


4.携帯電話

2004/10/19
あやめ(3-5前半)

 その男を一目見た途端、あらゆる記憶は甦った。
 闇が四隅にわだかまる古びた寺の一室で、女は男に再会した。
 来るのはわかっていたはずだ。自分はそのように連絡を受けた。
 だが驚きを隠すのに成功したとは到底思えなかった。救いがあるとすれば、相手の男も、自分の顔を見て負けず劣らず驚いていることだった。自分の表情を詮索する余裕があるとは思えない。
「・・・・・・夕食のお支度がありますので、失礼します」
 軽く頭を下げてその場を逃げるように去った。
 成歩堂龍一が食い入るように自分の背中を見つめていることを、痛いほど意識しながら。

 彼が見ているのは「私」ではない。
 彼が愛したのは「私」じゃない。
 彼が憎んだのも「私」ではなく。
 今も尚、記憶の中に住まわせている面影も「私」ではないのだ。

 それでも自分が愛しているのは彼であることに変わりはなかった。


 その夜、あやめはもう一度その男に会った。
 消灯の鐘を撞く前に。
 記憶とは違い、馴染んだ背広に身を包む一人前の「男」となった彼を、あやめは惚れ惚れと見上げた。
 そう。この、彼を見上げるときの首の角度まで、鮮明に覚えている。
 あれはもう何年も前の話なのに。
 自分が彼に為した行為は裏切り以外の何物でもないのに。
 なぜ自分の心は甘く浮き立つのだろう。
 これから何事が起こるのかさえ知っている今でも。
 不安に押し潰されているはずの己の胸が、熱く脈打っている。
「成歩堂さん。これは退魔の頭巾です」
 あやめは己の被っていた頭巾を男に差し出した。
 己への不安より、目の前の男への心配が勝っていた。
 男の反応は鈍かった。あ、ともう、ともつかぬ応えを発して、反射のようにあやめの頭巾を受け取った。
 だいじょうぶ。これでこの人は護られる。
 耳朶まで赤く染まっている男を見上げながらあやめは思った。以前と変わらぬ部分も彼にはある。それを発見できたことが、何とはなしに嬉しかった。
 あやめは頭を下げて成歩堂の傍を辞した。消灯の鐘を撞き終え、自室への廊下を戻ってゆく。
 自室に着いてもしばらくは落ち着かなかった。夜闇の中で何が起きているのか気になって、明かり障子を少しだけ開けた。
 突き刺さるような冷たさの外気と共に、雪が降り込んでくる。
 遠くで雷光が走り、続いて雷鳴が追いかけてきた。
 あやめは別室で休んでいるはずの成歩堂を思った。
 あの人の場所を、これ以上姉に侵させはしない。
 あやめは左手の袂をそっと右手で掴んだ。
 そこには自分の携帯電話が入っていた。
 この電話が鳴ったとき、自分の運命の歯車は新たに廻り出す。
 あやめはゆっくり目を閉じた。

 まったく唐突に、携帯電話は鳴りだした。
 それが誰からの電話か、無論あやめにはわかっていた。





                                      (了)






戻る