8.公園
|
|
2004/10/19
灰根(1-4直前) |
|
クリスマスの前夜、男は初めて人を殺した。
その男の服を剥ぎ、自分の身に着けていく。殺した男の顔は確かに十五年前、自分を弁護した弁護士のものだったが、もはや何の感慨も彼は感じなかった。
十五年間、事件のことは意識しないようにつとめてきた。矜持も人生も愛も失って、それでも尚生き続ける為にはそうするしかなかった。
だが心の底の仄暗い憎悪は、長い歳月のあいだ常に己に寄り添っていたのではなかったか。
むしろそれを支えとして己は生きてきたのではなかったか。
ある朝ボート小屋の戸口から投げ込まれていた手紙を読んだ途端、沸き上がった感情がまさにそれを証明していた。
「何か忘れたことはないかい?」
「DL6号事件ヲ忘レルナ」
死んだ恋人の名をつけた鸚鵡が、なぜその言葉を繰り返すのか。教え込んだ覚えもないのに。
悪夢を見た際の寝言からか。意識に上せぬ独り言からか。自分はそんなにあの事件の名を繰り返したのだろうか。
だがついにサユリさんはDL6号事件を覚えてしまい、そして忘れなかった。
戸口に投げ込まれた手紙は天啓なのだろう。そこには復讐を果たすための手順が事細かに示されていた。
誰が、どんな意図で。それはもはや男にとってどうでもよかった。
「時間だ」
服を剥がれた弁護士の死体が転がるボート小屋を後にして、男は外に出た。
目論見通り、濃霧が闇となって公園を浸食していた。
湖面に出る頃には霧はさらに深くなっているだろう。
波に揺らぐボートの群のかすかなきしみを聞きながら、昔灰根という名だった男はただ待った。
殺した者以上に憎悪を感じる、かつて小さな男の子だった青年を。
自分が追い出された場所、裁かれた場所で今も尚、のうのうと脚光を浴び続ける卑怯な殺人犯を。
湖はすっかり霧で覆われている。
背後で足音がした。目で確かめるまでもなく、自分が呼び出した若造の足音だとわかった。
「急に呼び出してすまないね、御剣検事」
顔に浮かべた笑みは消さぬまま、男は振り向いた。
その表情は青年には看破できまい。
それほどに、周囲の霧は濃く暗かった。
灰根の心の霧もまた。
夜闇に一羽、鴉が鳴いた。
(了)
|
|