30のお題

 


16.手紙

2004/10/19
千尋(3-5後)

 気がつくと朝日を浴びながら、女はそこに立っていた。
 鬼界から呼び出だされる都度感じる違和感、そして目前の、文机の上に置かれた妹からの手紙。
 それは女にとって馴染みのあるものとなりつつあった。
『お姉ちゃんへ
 カラダ貸してあげます
 真宵』
「真宵ったら・・・・」
 千尋は手紙を手にとって眺め、そして苦笑する。頬が紅潮するのは抑えられなかった。
 今立っているこぎれいな和室は、倉院の里の真宵の居室だ。
 クローゼットの取っ手に、生前の、よく手入れされた千尋のスーツが掛けてある。勾玉とスカーフも添えて。
 文机の隅の小さな置き時計は七時半を指している。
 市街地のはずれにある拘置所の面会時間は、午前十時からだった。


「よぉ。あんたか」
 遠い昔聞き馴染んだ声は、今はひび割れて聞こえた。
 防弾ガラスを挟んだ向こう側に懐かしい男が座っている。
「神乃木先輩」
 その呼びかけに、男は喜んだような、傷ついたような笑みを浮かべた。千尋の生前、彼についてもっとも強く印象に残っていた黒い双眸は、無機的なアイマスクの下で永遠に喪われている。
「忘れちまったさ。そんな昔の名前は、な」
「私のことは忘れていないのに」
 千尋は苦笑した。この男の前でスーツ姿で居ることが、何となしに気恥ずかしかった。この居心地の悪さはもうずっと昔、自分が駆け出しの弁護士だったとき以来感じたことの無かったものだ。あの当時二人の間にあった淡い予感は、ある女に奪われてそして二度と返ってこない。プライドも心も想いも死んだときのままだ、だがこの男と共に未来を作っていくことだけは、もはや千尋にはできない。
 そして男も。以前のままの男ではあり得なかった。
「あいかわらず美人だな、チヒロ」
 パイプ椅子に斜に座って男が嘯く。
「先輩にそう呼ばれるの、すごく久しぶりです」
「かわいこちゃんには優しくする。それが俺のルールだぜ」
「その後体調はいかがですか」
「あんまり思わしくないぜ。何しろ出されるコーヒーが不味くてな」
 男の怪我や審理予定、真宵の近況などをひとしきり話し合った後、沈黙が訪れた。
 やがて男がぽつりと云った。
「つまり、もう俺たちに出来ることは何もねぇってことだな」
「そうね。私達の出番は終わりよ。検事さん」
 男は言葉を切ってうつむいた。
 男の表情の殆どがゴーグルの下に隠れていることを、今だけ千尋は感謝した。
 やがて男がこちらを見る。
「・・・やっとあんたと向かい合えたな、千尋」
「ええ。先輩」
「ここにはあんた一人、俺一人。俺にもあんたにもすべきことは何もなくて、互いに何も持っちゃいねえ」
「そうね」
 千尋は神乃木を見つめた。
「俺たちを隔てるのは、無粋なガラス一枚だけってわけだ。今だけはな」
「・・・・・先輩」
 ガラス窓の向こうから、男がゆっくりと千尋に向かって手を伸ばしてきた。
 ガラスに骨張った男の手が貼りつく。
「・・・・あんたに触りてぇな」
 それは初めて見る笑顔だった。
 初めて聞く声音だった。
 神乃木が弱音を吐いたところなど、今まで千尋は一度も見たことがなかった。
 ガラス越しに、男の掌に自身の手を添えようとするその視界が急速にぼやける。
 こらえきれぬ嗚咽が千尋の口から漏れ、とうとう千尋は泣き出した。
 右手をガラスに押しつけて、左手で口を覆って、顔を上げることもできなかった。
「おいおい。泣くのはよせよ、子猫ちゃん」
 励ましではなく困惑が、千尋の頭上から降ってくる。
「泣かせてください、先輩。最後くらい」
 涙の中からそれだけを、かろうじて千尋は口にした。
 男はそれきり黙り込んだ。手はガラスに触れたまま。
 男の熱が、ガラス越しに千尋に伝わってくる。
 それは恋と呼ぶ筈だったものの名残だ。
 温かく、血は通っていても、手に入れることは決して出来ない。
 いずれ途切れるしかない互いの心が今だけ、たった今だけ、真宵の霊力を通して繋ぎ合わさっている。

 留置所の面会室に、千尋の嗚咽がひときわ大きく響いた。
 




                                      (了)






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