竜の婚姻
(全7頁)

06/04/04
盲目の娘を恋うた竜
★☆☆







 風に乗って世界を飛び回る竜があった。
 形は小さいが、もう世に生まれてから幾世紀もの齢を重ねた竜であった。
 竜は母親と共に、風の生まれる西の果ての雲の中に棲んでいた。ときおり世界を縦横に飛び回っては、人家と家畜を焼き、人肉を食んだ。
 竜は母親から人間を憎むこと、屠ることだけを教わってきた。



 ある夜、常の通り雲に紛れて風に乗り、肥沃な広野の上空を渡りつつ、竜は、地虫のごとく散らばる人間の民家をどこから焼き滅ぼしてやろうと思案していた。
 そこへ、横合いから流れてくる風が、いとも妙なる響きを乗せて竜の耳をくすぐった。
 竜は風上へ頭を向けた。
 高く低く響く歌声が流れてくる。
 そのたぐいまれなる美声が、竜の気を引きつけた。
 夜目の利く竜の金の眼が、声の主を捜し当てた。
 夜空に突き立つ尖塔の天辺、窓の縁に腰掛けて、年若い娘が風に乗せて歌を放っている。
 そこは近隣に威を放つ王の離宮だった。塔が囚人を幽閉するための場所だとは竜にわかるはずもない。竜は翼を広げて尾をうねらせ、塔へと向かった。
 娘の歌声が近くなる。
 娘は暗い夜の中で、星のように輝いていた。
 編まれてもいない長い髪は白く、なめらかな肌もまた白く、柔らかくふくらんだ唇と頬、指の爪先だけが、ほのかな赤に色づいていた。身に纏う麻の服は、罪人が纏う粗末なものだったが、煤けたその暗い色が却って、その裡で息づく娘の美しさをいっそう際だたせていた。
 その部屋に、娘のほかに人間の気配はなかった。
 竜は威圧感をもって音高く舞い降り、頑丈な爪で塔の外壁と窓枠に取りついた。
 風と音とに娘が振り向く。
 こちらを見た淡い青の双眸は、うっすらと濁っていた。
 竜は制圧者の目で娘を睨め付けた。耳障りな悲鳴を上げたら、その白い喉笛を喰い千切ればいい。軟らかな肉に歯を突き立てるさまを想像し、満足げに娘を見たが、娘のほうは怯えも見せず、ただその場に呆然と突っ立っていた。
「・・・・だれ?」
 ついに娘が言葉を発した。なんの緊張もなく。
 茫洋とした青い瞳は焦点が合っていない。
 竜は不満げに唸った。常ならば人は誰もが悲鳴を上げ、恐慌に陥り、こけつまろびつしながら少しでも己から遠ざかろうとするものを。
 竜は窓枠から脚を伸ばして、塔の床の上に滑り入った。
 きしるような音を立てて爪が石床を掻き、鱗に覆われた尾が鈍い音で床を打つ。
 娘はほんの少し後退り、だが逃げることはなかった。たよりなげなしぐさで、音を立てた竜に向けて白い細い手をゆっくりと伸ばす。
 娘の手が、竜の鼻先の硬い鱗に触れる。竜が満足げに鼻息を吐いた。今度こそ、娘の心に恐怖が湧き上がる、はずだった。
 だが娘は怯えなかった。ただ無言のまま、首を傾けた。
 娘は盲目であった。
 虚空を覗き込むその双眸に、あどけないと云ってよいほどの表情に、竜は思わず引き込まれた。
 娘は竜に触れ続ける。娘の手が竜の顎を伝い、頬を撫で、瞼をまさぐる。
 娘の予想外の無邪気な反応に、また一瞬とは言え娘に魅せられた己自身にも腹を立て、竜は低い唸りを上げながら娘の腹に頭を押しつけた。
 竜の額に娘の柔らかな両の乳房が当たる。
 長い鼻面は娘の下腹部に当たった。服の内から娘のにおいが立ちのぼる。
 竜の身の裡に唐突に、ある情動が湧き起こった。
 竜の頭が力強く動いて娘を後ろに押し倒す。娘はあっけなく頽れて、仰向けに倒れた。
 粗末な衣服の裾がめくれ上がり、白い太腿が露わになる。
 竜は息を吐きながら娘の体の上にのしかかった。娘は抵抗を見せず、ただ竜を見上げて、再び竜に白い手を差し出した。
 繊細な指が、涎を垂らす竜の口と、その内側に突き立つ牙を撫でる。
 竜は娘の顔を見下ろした。
 茫洋とした焦点の娘の目もまた、竜を見上げた。
 瞬間、視線と視線が交差する。
 竜の姿を見ぬ娘の青い瞳が、もっと奥底の深い何かを見つめた。娘に見通されて竜は悟った。
 これは自分の母親と同じ目を持つ女だ。姿形の本質ではなく、魂の本質を見通す巫者の目。
 竜の喉から新たな唸り声が漏れた。威嚇の声ではなく、娘の意を迎えようとするかのような、媚びにも似た低い声が。
「……はい」
 やがて娘は歌っていたときと同じく、よく通る美しい声で竜に告げた。
「私は貴男に応えます」
 娘が陶然と微笑む。
 粟肌が立つほどに美しい笑みだった。


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