夜中の薔薇
(全2頁)

02/06/17
敵国の王に嫁ぐ姫
☆☆☆





 初冬の空に、金色の旗が虚しく翻る。
 平和と友好を意味する婚姻の陰にある屈辱と悲壮を、馬車の中の花嫁だけが知っていた。
 栗色の長い髪を美しく巻き上げ、白絹と花々で着飾って、娘は花を戴いた馬車から降り立った。
 その先に、獣の王が立っている。
 艶のない黄色い髪と感情を表さぬ青灰色の目。尖った鼻は森狼を連想させ、実際に狼皮のマントを身に纏っ ている。
 娘はぐいと顔を上げて、男を見た。男は素っ気無く、一輪の薔薇を渡した。冬の夜気が当たらぬように、温室 で丹念に育てられたに違いない花ではあったが、文明の風雅に慣れた娘にとって、その花の形は野暮ったい だけだった。娘は黙って薔薇を受け取り、それで婚姻の儀式は終わった。
 その晩、獣の王は荒々しく花嫁を抱いた。甘い言葉一つ吐くことなく、新床の夜は終わった。破瓜の痛みに喘ぐ娘を打ち捨てて獣の王は寝室を去り、娘は初めて存分に泣いた。

「幾月かの我慢だ」
 公国の領主である娘の父は、そう云って苦しげに顔を歪めた。
「わかっています」
 娘は感情を抑えて父に答えた。自分は父の道具にすぎない。結婚とはそうしたものだし、女とはそうしたものだ。
 人質として北方蛮土の王の妻になる。それによって蛮族の国境侵犯は止まり、蛮族の南下が抑えられる。父が云うように幾月かは、遙か北方の地に蛮族の長の妻として暮らす。父はその間に、蛮族に対抗するために必死で軍備を整え、近隣の諸侯に助けを求めるだろう。手回しがうまく行かねば、あるいは数年がかかるかもしれない。しかしその期間が過ぎたら、父は国を挙げて北の蛮族に叛旗を翻す。国境を侵して敵地深くに攻め込み、王城を包囲して、完膚無きまでに蛮族を叩きのめす。蛮族の旗が父王の兵士たちに泥を塗られる頃までには、娘は蛮族に嬲り殺され、塩漬けの首を父王に送られることになるだろう。
 娘にはわかっていた。父にとって、娘の命とはそのように使うものなのだ。それを隠してさも心配げに自分を送り出すのは、敵地で命惜しさに娘が敵に策略を告げるのを怖れるからだと。
 そのとき娘は泣かなかった。泣いたところで何が変わるわけでもない。表情を殺して、飾られるままに花嫁衣装を着込み、「必ず迎えに行く」という父の空言にもっともらしく頷いて、生まれ故郷を去った。娘には、ほかにどうしようもなかったからだ。

 獣の王には愛人がいた。王と同じ黄色い髪の、居丈高な大柄の女だった。
 女はことあるごとに娘を罵倒した。蛮族の言葉を話せぬ娘を侮蔑し、衆人の前で娘を面罵し、寝室では睦言のかわりに王に悪口を吹き込んだ。王は滅多に娘の寝室を訪れず、娘は妻でありながら愛人の女に小突かれて日を過ごした。
 冬が終わり春が過ぎても、北辺の国に父王の烽火があがる兆しは見えなかった。そのころ、娘は体調の変化に気づいた。月のものは止まり、食の嗜好が変わった。妊娠と知って愛人の女の怒りは頂点に達し、夜ごと娘を打擲した。女は王と数年来連れ添っていながら、いっこうに子ができる気配がなかったのだ。夫たる王はさすがに女に非難めいた言葉を吐き、それがいっそう女の行為を激化させた。ある夜、娘は怒り狂った愛人に階段から突き落とされ、十数段も転がり落ちて、足の間から夥しい血を流した。失血に茫然となりながら娘の耳は、ようやく聞き覚えた蛮族の言葉で女が、自分は汚らしい雌犬から夫の子供が産まれてくるのを防いだと勝ち誇って夫に報告するのを聞いた。夫は終始無言のまま唐突に女を殴り飛ばし、女は壁に頭を打ちつけてそれきり動かなくなった。
「ヌルウェイナ」
 夫が口にした優しい言葉は、娘の名前だった。
 食いしばった歯の間から嗚咽が漏れた。この期に及んで涙をこらえていたことに、初めて娘は気づいた。夫が差し出した手を掴んで、娘は泣きに泣いた。激痛と激情ともっと深い何かが娘の殻を破り、娘は血にまみれたまま、夫の胸に縋りついた。
 娘の体が恢復するには、三月ほどもかかった。夏が去る頃には夫との閨は甘やかなものに変わり、次第に濃密さを増してきた。冬の足音が聞こえる前に娘はまたも身ごもり、今度は夫の庇護があることをじかに感じながら、翌年の夏、男児を出産した。その息子は半年後に熱病にかかり命を落としたが、夫の寵愛は娘の元から去ることはなかった。


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