濁る河(全2頁)

02/08/20
欲と情が交錯する山国
★☆☆





 河へと続く急峻な崖を背に、その城は在った。
 領地とては猫の額ほどの耕地と、山の傾斜にへばりつくように散在するいくばくかの村落、それだけだった。
 崖下を流れる川はやがて山を抜けて平野に注ぎ、豊かな穀倉地帯へと続く。
 富める領主と台頭を狙う商人、立身を求める騎士達が争い合う世界とは切り離された貧しい世界に、その山間の国はあった。
 王はまだ若かった。先代の王であった父の死後、国を継いで未だ五年に満たない。
 王には妹がひとりいた。若く美しいというほかに取り柄を持たない、ゆえに平野の男達を釣るのに格好の娘が。
 王は娘を城の外に出さず、籠の中の鳥のように大切にして育てた。

 娘は若く美しく、幼くはあったがまたそれ故に一途であった。年降りた者が見れば、従順な素直さの奥に潜む情の強さに気がついたことであろう。だが兄王が支配する城は世代交代が進み、若い雰囲気に支配されていた。楽観的で希望に満ち、己の望むことはいずれ成就されると信じて疑わない明るい若者たち。もちろん王もまた、そうした若者の一人であった。
 兄王の側近に、ある男がいた。戦強者の騎士で、身分はそう高くはないが、戦場での名声が家名を補って余りあった。兵の扱いもうまく、誰もが次代の将軍と認めていた。
 その男が、王の妹に恋をした。
 王が妹を政略に利用する腹づもりがあることを、男も娘自身も漠然と理解していた。だからといって恋が止まるわけではない。むしろその障害を感じ取ったことが、恋の炎をいっそう燃え上がらせる結果となった。希代の戦上手という評判が、男の傲岸さを増長してもいた。王が男に対し風当たりを強くしても、男は敢えてそれを無視した。それは王の嫉妬と不安を買った。妹を手に入れれば、己の名声を根拠に、現王より王位にふさわしいと主張することもできる。
 王は不安を打破すべく手を打った。男は要職を奪われ、次の戦には指揮官としてではなく一騎士として出陣することを余儀なくされた。己の手腕に絶対の自信を持っていた男は憤慨し、戦が終わったら密かに王妹を盗み出し、この国を出奔してやろうと心に決めた。傷つけられた自尊心を癒す為には、王に対し腹いせを働く必要があったのだ。
 男は王妹に会う手はずをつけた。

 沢を流れる激流が耳を打つ。
 城に仕掛けられた抜け道を下ると、崖下の川縁に出られるのだ。
 闇が深々と周囲を覆う頃、男は娘を呼びだした。
 心のどこかで、この方法は通らぬと告げている。男はその声を押しつぶした。本当は今すぐにも娘を攫って連れて行きたいところなのだが、戦の前ということで、敵方の偵察を防ぐため、常より警邏が厳しくなっている。戦の直後に娘を連れ去るつもりだった。
 娘が岩に穿たれた石段を降りてくる。夜着が風に舞い、翻っていた。
 男に気づき、恥ずかしげに微笑んだ。花のようなあでやかな匂いが男を刺激する。
 男は腕を広げて、娘を抱きとめた。男の接吻に娘も答えた。娘にとって、自分が兄の計画から外れる為にこの男の存在が不可欠だ。国を出るという男の案に、娘は怯えはしたものの抵抗は示さなかった。お互いの意志は確認しあった。後に必要なのはその手形だけだ。
 その夜、娘は初めて男に抱かれた。


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