弔鐘(全2頁)

02/10/11
兄と弟と婚約者
★☆☆





 夏の戦場を支配した季節はずれの雪は、やがて氷雨となった。
 白い息を吐きながら、兄が、倒れた弟を見下ろしている。
「ロホトル。兄さん」
 弟が兄の名を呼ぶ。弟の潤んだ目に映る己の姿を見て、ロホトルは息を詰めた。
 辺り一面は雨でぬかるんでいる。弟の体の下を、泥と共に血が流れ出す。
 弟が力なく、手を兄のほうへ伸ばした。ロホトルは泥の中に跪いてその手を強く握った。
「マーロット」
 名を呼ばれた弟は兄に向かってほほえみかけている。目にすることすべてが信じられなくて、ロホトルは瞬きを繰り返した。弟の胴を鋭く抉った槍傷も、弟の血と混ざりながら流れ去ってゆく泥流も、青白い顔の弟が自分に向けて見せる優しい微笑も。
「ごめんよ、兄さん。エーリシャに、よろしく」
 口の端から泡とともに血を吐き出しながら、マーロットは震える声で告げて、それきり口を閉ざし、瞼を閉じた。弟がまだ生きているのは知っている、だが彼が生き延びることなく苦しんだまま死んでゆくことも知っている。ロホトルは黒い目を瞠って、弟の右手を掴んだまま、その場に立ち尽くしていた。
 マーロットが瞼を開いた。その目はもはや笑ってはおらず、兄を責め、強く促すまなざしだった。苦痛と憎悪が相半ばする鬼の形相。力なく開かれた弟の口からは泥と同じほどに濃い血が溢れ出し、それ以上弟を黙って凝視していることができなくなった兄は、ついに行動を起こした。
「エーリシャ・・・・・」
 弟の最後の声を聞いたのだろうか。
 雨が甲冑を叩く音に紛れて、聞き違えたのだろうか。
 ロホトルは弟の両目を左手で覆った。
 弟の心臓に短剣の白刃が呑まれていく。柄を握るのは兄の右手だ。
 弟はびくりと体を動かして、手が力なく土を掻き、それきり動かなくなった。兄は魅入られたかのように、己の短剣が突き立ったままの弟の遺骸を食い入るように見つめ、長いことそうしていた。
 雨がいっそう激しくなり、雷雲が猛る。
 風が泥だらけの敵軍の旗を巻き上げるころ、ロホトルは泥土の中に突っ伏して泣き声を上げた。
 己が殺した弟の体の傍で。


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