冥王の娘
(全2頁)

04/01/08
人の王を恋う冥府の娘
★☆☆


1



 冥府の王には一粒種の娘があった。
 丈高く肌はほの白く、蔦のように絡み合う黒髪と土の色の瞳を持つ娘だった。
 ある朝、太陽が未だ天空に昇りきらず、梢や繁みに闇を残す頃合い、冥府の娘は藪の影からひっそりと姿を現して、ひとりの男を見そめた。
 太陽そのもののようなあかがね色の髪と、皮膚の下に滾る赤い血を備えた、年若い王だった。娘は王の姿を暗がりから見つめ、抜けるように白い肌を心持ち染めながら父の国へ下った。
 娘の吐息の理由を、冥府の支配者はすぐに悟った。
「そなたは恋をしたな」
 娘は首をかしげ、無言で父を見た。
 まばたいた娘の目から、恋慕の涙が一粒転がり落ちた。それは血のように赤い紅玉に変じ、冥府の床にぶつかって高い音を立てた。
 娘はゆるゆると言葉を紡いだ。
「私は恋をいたしました。あかがね色の髪を持つ人間の王に」
 冥王は娘よりいっそう暗い土色の瞳を曇らせ、諭した。
「王と云えど人は人、そなたにふさわしい者ではない。人間は寿命は短く、体は脆く、ゆえに欲も深い。そなたは恋に重ねて嘆きを知ることになろう」
 娘は俯いてただ口を閉ざした。




 幾たびも血の雨を被った、山々に挟まれた平原の日の出前。
 勝ち目のない戦を目前に準備を整える王の目の前に、その娘は現れた。
 身に纏う衣装は豪奢だが古めかしかった。陰鬱な美貌と暗い情熱を身に宿したその娘は、自分なら貴方を助けてやれると王に告げた。
 王は笑って相手にしなかった。
 余裕を失った彼の目には、その娘は狂女としか映らなかったのだ。
 娘は王の居丈高な態度には臆せず、形よい唇から声を飛ばした。
「戦の前に、敵の陣に害を為して敵の戦意と勢力を弱めて差し上げます。貴方に命と勝利をもたらす為に」
 年若いと見えるその娘から発された言葉は重々しく響き、言霊は歳降りた呪術師の呪言のごとく、いつまでも周囲に漂った。

 娘は敵の陣に流れる泉の水に鉱毒を混ぜた。
 敵は将を始め皆腹痛に苦しみ、ある者は顔を引きつらせて死に、ある者は激しい嘔吐と排泄に見舞われた。王が率いる軍は病者の群と化した敵をたやすく破り、娘の言葉通り王は勝利した。
 戦の後で、王は先刻とは異なる目で娘を見た。
「そなたは神か、妖女か」
「私は土精の助けを得てはおりますが、貴方を慕うただの娘に過ぎませぬ」
 娘は王の前に目を伏せた。
「人ならざるものを我が館へ迎え入れるわけには行かぬ」
 王の言葉に、娘は黙って己の肩を抱いた。睫毛の縁からこぼれた水滴は足に滴って黄金のかけらに変じた。
 王はかがんでそれを拾い上げた。
「そなたの涙は黄金に変わるのか」
「紅玉にも碧玉にも変じます」
 娘は睫毛をしばたいた。言葉の通り、今度の涙は海よりも青い碧玉と化した。
「そなたを私の妻に迎えたら、そなたの愛は何に変わろう」
 王はゆっくりと、己のマントで娘の体を覆いながら尋ねた。
「如何様にも。貴方を護る鎧、貴方を勝利へ導く剣、貴方に富貴と強健をもたらすあらゆるものへ変じましょう」
 言葉を皆まで言わせず、王は娘の唇へ口づけた。
 娘の首筋から、甘やかな花実の香りが立ちのぼった。


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