不死なる王の森











 翌日も娘は庭へ出た。手には昨日より大きな手職を持っていた。
 美しく咲き乱れる花々や楽しげに飛び交う鳥たちには目もくれず、まっすぐに塚へと向かった。
 階段を降りるときに、昨日ほどの恐怖と不安はもう感じなかった。
 数々の墓石に触れ、そこに眠る女たちと会話をするかのようにひとつひとつを眺めていった。特にその献辞について。昨日よりいっそう注意深く。
『大輪の薔薇より野ばらを愛した娘 病を得て眠りにつく』
『花神の名を持つ娘 老婆となってなお美しいまま眠る』
『金の蜜の髪の娘 愛を与えようとして果たせぬまま病死』
 死せる女たちへの献辞から、不死の王の感情を娘は読みとろうとしていた。
「またここへ来たのだね」
 ふと声がかかり、周囲に冷気が漂った。
 振り向いた視線の先に、階段の中ほどに立つ男の姿が見えた。
 闇の中で、不死の王の顔が仄白く浮かび上がっている。
 廟の中は変わらず暗く、不死の王は灯りを持ってはいなかった。だが娘には夫の姿がはっきりと見えた。
 初めて逢ったときと変わらぬ黒い外套が踝までを覆っている。生気と表情に乏しい整った顔立ち。以前と変わらぬその姿に、なぜか娘は動揺を覚えた。
 不死の王は、娘の視線をただ無表情に受け止めた。
「ここになにか興を引くものでもあるのかね」
「この言葉はどういう意味なの?」
 娘はふたつの墓石を指さした。
 不死の王は滑るように近づいた。娘の肩を抱き、背後から墓石の献辞を覗き込む。
『愛を欲した娘 得られぬことに絶望して死を選んだ』
『私を救おうとした娘 試練に耐えられず倒れる』
 しばし王は無言だった。
 やがて黙したまま、娘を後ろから抱き寄せる。娘の体は男の外套にすっぽりと覆われてしまった。
 男の腕に包まれているはずなのに、娘は温もりではなくむしろ冷気を感じた。
「寒いわ」
「そうとも。私の体は熱を持たない」
「心臓がないから?」
 不死の王の口が横に広がった。殆ど笑おうとするかのように。
 前を向く娘の目にはその光景は見えなかった。ただ王の吐息から、それと察した。
 この男が笑ったところを見たことがない。かすかな微笑さえも。
 今さらのように娘は気づいた。
「あなたには心がないのね。それがあなたの呪いなの?」
「そうだ」
「呪いが解ければいいと思ったことはある?」
「むろん思った。幾度も願った。もう数え切れぬほど。夏至の短夜を送り、冬至の弱い日の光を浴びるたびに。幾星霜も」
 不死の王の語気がわずかに震えた。闇の中で冷気が一層濃くなる。
 不死の王はそっと娘の頬に口づけた。
「わけても幾人かの妻が愛を口にしたときには」
 氷に触れたときのような感触が娘の頬に残された。
「私の呪いは愛に触れることができない。得ることも与えることも叶わないのだ」
「魔女が奪いたかったのはあなたの死や老いではないのね」
「そう。私から愛を取り上げるために心臓を奪った」
「気の毒に」
 冷たくなった娘の頬を、熱い涙が伝った。
「なぜ泣くのだね」
 柔らかな響きを持った声で不死の王が問う。
 娘は答えず、不死の王の手の中で泣き続けた。
 手職を持ったまま、闇の中で。


 その夜、娘は夢を見た。
 不死の王の館を出て、娘の足は狩猟場を北へと向かっていた。
 どこへ行くかはわかりきっていた。
 夫に決して近づくなと言われたところだ。
 打ち捨てられた北の一角、入ることはおろか、扉を開けることさえ禁じられた塔。
 そこへ娘はやってきた。
 塔の内と外を隔てる鉄扉に己の影が映る。
 戸の隙間からは尋常ならざる冷気が漏れ出てくる。
 この冷たさには覚えがあった。
 この部屋の中に、夫の体の一部が閉じ込められている。
 呪いによって奪われ、凍りついた心臓が。
 自分ではない娘が現れて、塔の扉を開けた。
 強い冷気に触れただけで、その娘の体は凍りつき、息絶えた。
 不死の王が亡骸を抱いて塚に入り、霊廟に娘を葬る。手ずから大理石に献辞を刻み、塚の傍らに黙然と佇む。
 また別の女が、塔の扉を開く。
 今度の女の決意は強く、塔の階段を上がった最上階にまで辿り着いた。
 緋の絹布を被せられた台の上に、冷たく凍った心臓が置かれている。脈動はほとんどなく、淡い灰色に沈んでいた。
 女がおそるおそるそれを手に取る。ようやく持ち上げた、と女の表情が緩んだ瞬間、青い炎が心臓から沸き上がり、女の体を包み込んだ。女は悲鳴を上げて心臓を放り出し、火から逃れようと闇雲に走り回った。
 女の走る先には戸が大きく開いた窓があった。
 塔から落下して息絶えた女を、不死の王がまたも抱き上げて塚に葬る。墓石となる大理石に献辞を刻み、常春の庭で大木を前に黙然と佇む。
 そうして幾度も不死の王は見送ったのだ。自分のために死んでいく妻たちを。
 人を愛せぬ凍った体のままで。
 同情すら感じることもできずに。




「呪いを解いてあなたの心臓を取り返すわ」
 ある朝、食事を共にしながら娘は夫に告げた。
 夫はスプーンでスープを掬う手を止めて、無表情に娘を見た。
「それだけはやめたほうがいい」
 だが娘の決心は変わらなかった。
「方法はわかってるの」
「どの妻もそう云った。だが果たせなかった。おまえも恐らくそうなるだろう」
 不死の王は視線をスープの入った皿に戻す。
「私の呪いを解こうとしたところで、無駄に命を失うだけだ」
「あなたは呪いを解きたいんでしょう。自分でそう言ったじゃない。だったらどうして私を止めるの? 呪いを身に負ったままで、永遠に生き続けようと言うの?」
「それが私のさだめであれば仕方ない」
 不死の王の瞳が娘に向けられた。
「おまえこそ、なぜそんなにも私の呪いを解きたいと思うのだね」
 娘は拳を強く握った。
「あなたにはわからないわ」
 涙が溢れるのを抑えるために、目を見開いていなくてはならなかった。
「夢を見たの。妻にしていた女の人が幾人も死んで、あなたはいくつも墓石に献辞を彫った。弔いの言葉は優しいけれど、一人一人があなたの心に触れることは一度もなかったんだわ。そして私もいずれそうなることがわかったの。生きている間あなたに優しくしてもらって、死んだらあの塚に葬られて、あなたに献辞をもらう。そして忘れられる。呪いを解こうとして死んでも、老いや病で死んでも、どちらにしろ同じことよ。私も死んでいったあなたの妻たちと同じ。あなたの心に触れぬまま朽ちて死んでいくのが私のさだめなんだわ」
 テーブルの上の娘の拳の上に、ついに涙の滴がこぼれていった。
「一緒に住んでも、夜を共に過ごしても、私はあなたに何もあげられない。だから、だったら。あなたにどうせ先立つ短い人生のうち、なにか少しでもあなたに役に立つことをしたいのよ」
 不死の王は無言で娘を見つめるばかりだった。
「私はあなたが好きだから」
 夫は表情を変えなかった。娘の言葉はむなしく響き、空へ散っていった。









                                            

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