輝く星

 

2009/02/16
歌人と女
★☆☆



 星々が冷たく輝く夜。
 屋根が毀たれ、廃墟となって久しい教会堂にひとりの歌人が入り込み、壁と壁の間で暖をとろうとしていた。
「もし」
 声をかけられて歌人は顔を上げた。
 星々を身に纏ったようにきらびやかな、美しい女が、歌人の顔を覗き込んでいた。
「そこはわたくしに定められた場所ですわ」
 女の声は鈴を振るような美声だった。若いとも老いているとも見えず、ただ、表情の乏しい白い面に、はっとするほど鮮やかな青が宿っていた。
 それは女の瞳だった。
 歌人はしばし女に見とれた後、ようように腰をもぞもぞと動かした。
「それは……失礼を」
 そう言ってその場を退こうとしたが、体は既に歌人の意志のままにはならなかった。
 寒さに震えるその手から鈍い音を立てて弦楽器が落ちる。女はゆっくりと石床に手を伸べて、歌人の楽器を拾い上げた。
「お許しを、ご婦人」
 歌人は痺れたような舌でようやっと言葉を紡いだ。
「凍てつく夜にすり切れたこの身は、もはやここから動けませぬ」
 男の楽器を持ったまま、女が初めて微笑んだ。
 歌人がこれまでの人生で目にした中で、もっとも美しく優しい微笑だった。
「構いませんわ。ふたりで座ればよいだけですもの」
 女は滑るように歌人と壁の隙間に入り込み、優雅に座った。歌人と壁との間には鼠が通るほどの幅もなかったはずだが、女の体は、間隙にちょうどよいようにすっぽりと収まった。
 歌人の肩と女の肩が触れる。女の肩に熱はなく、さりとて冷たくもなかった。
 女が歌人に楽器を返す。受け取ろうとする歌人はだが腕が思うように動かない。とまどい困惑するうちに女の白い指が歌人の手を取り、楽器をその手に握らせた。
 女の手は歌人の手から離れなかった。
「ご婦人」
 歌人の声は囁きより低く掠れている。
「私は病に冒され死にゆく者。あなたのような美しい方には到底そぐいますまい」
 女は先ほどと全く同じ笑みを歌人に向けた。
「太陽が今より赤く熱く、地表が醜く歪んでいた頃のことをご存じ?」
「いえ」
「その頃海はまだなく、太陽と大地は永遠に触れ合わぬ、世界にふたりだけの恋人どうしでした。やがて海が生まれ、地表は冷え、太陽は熱さを当時より失いましたけれど、互いに惹かれ合う心は変わらず、今も、太陽が大地の周りを巡り続けているのですわ。恋に時節はないのです。老いも病も醜さも、恋を妨げることはできません。何者であれ、何千年もの時をかけて恋を続けることができます。逆に」
 歌人の指をたぐる女の手が、優しく男の手を包む。
「一夜限り、刹那ばかりの恋にもまことが宿ります」
 死相を顕す男の顔がふいに歪んだ。利かぬ腕で、女の手を、必死の形相で握り返す。
「では此処にいてください。一晩だけ。私の魂が、私の朽ちた肉体から飛び去るその時まで」
 女が微笑んだまま、男の体を柔らかく抱き寄せた。
「お願いです。私を、ひとりにしないでください」
「たやすいことですわ。その時が来るまで、わたくしのために歌って」
「できません。かつては、どんな歌人よりよい声を持っていた。歌は私の命そのものだった。だが、今はもう永遠に歌は私から失われてしまった。死の何が辛いと言って、そのことが一番辛い」
 男は女の胸の中で泣いていた。
「大丈夫。あなたは歌えます」
 幼子をあやすように、女が男の背を撫でる。
「歌うために声は出さなくてもいいの。歌って。耳ではなく、心で、わたくしはあなたの歌を聴くわ。愛しい方。あなたのために、いちばん美しい私でここにおりましょう。朝が来るまで」
「ありがとう、やさしい人」
 それきり、ふたりは言葉を交わさなかった。
 目を閉じて身を寄せ合い、ただ、凍える寒さの中に、歌人の心の音が次第に弱ってゆくのを聞いていた。
「私は幸福だ。あなたのおかげで」
 声によらず心で、歌人は感謝を女に伝えた。
 心の中で女のために織り上げた恋歌の最後のくだりが、そのまま歌人の最後の想いとなって、そして消えた。


 凍てつく夜の次には凍てつく朝がやってくる。
 せめてもの暖を取ろうと壁の隙間に身を寄せた歌人は、夜を越えられずその場で事切れていた。
 その傍に、石床を割って、ヒアシンスの花が咲いていた。
 狂い咲きと言うにも早いその花はわずかに茎から傾いでいる。
 あまりにも早く芽吹いて花開いた代償として、その花草は、既に茎水を凍らせて短い命を終えていた。
 朝日が昇るにつれてかろうじて溶け出した氷が、まるで涙のように、花弁から冷たい石床に滴っていった。



                                      (了)




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