密会

 

2009/07/09
蜜月の終わり
★★☆



 気の早い雄鶏の時を告げる声が、閨の中にまで響いてきた。
 夜闇はすぐに朝焼けに座を譲るだろう。
 開け放たれた窓から、また一声、鶏の声が聞こえた。
 急かされるように、閨の中で、年若い女が裸身を寝台の上に起こした。白い背に長い黒髪が波打った。硬い表情を緩めぬまま、娘は、ぞんざいに着衣を身に纏い始めた。
 口を開きもせず、黙ったままで閨から去ろうと腰を浮かせた娘の細い腕を、寝台から伸びた逞しい男の手が掴んだ。
 寝床の上に体を横たえた若い男は、一糸も纏わぬ姿のまま、ただ無言で、腕を捕らえた娘の顔を見上げる。
 見下ろす娘の戸惑いを示すかのように。長い黒髪は揺らめいた。
 やがて、
「もう行かなくては」
 未練を振り切るように、娘の喉から細い声が漏れた。
「まだ早い」
 男の声は低く甘いが、落胆にひび割れていた。
「益体もないことを」
 娘は笑った、のかも知れなかった。その表情は微笑と呼ぶには硬く、苦笑にすら及ばなかった。男はそれ以上言葉を放つこともできず、ただ、有無を言わせぬ力強さで娘を強く引き寄せた。
 娘は抗わなかった。その細い体は簡単に、男の剥き出しの胸の上に倒れ込んだ。
 娘の吐息が男の頬をくすぐる。服を着たばかりの体を抱きしめられ、娘の呼気は更に熱くなった。
「なりません」
 娘の理性がようように言葉を紡ぐ。
 朝日が昇るより早く、侍女達が男の世話をしにやってくる筈だ。自分の姿を他者に見られるわけにはいかなかった。それを危惧する娘の声は緊張に鋭く尖ってはいたが、しかし、男を完全に拒否するには冷たさが不足していた。
 男もその状況を完璧に理解していた。
「いっそこのままでいよう。日が高く昇って、人々が起き出して、我々の愛が誰の目にも明らかになる時刻まで」
 男の手が娘の背中を撫でさすり、その顔が娘の頬に寄せられて、豊かな黒髪に口づけをする。
 男に女を手放す気配はない。娘は焦りを強くした。
「……愚かしいことです」
 女は男を咎めるように言った。さりとて体は、男の手と唇を拒むことはできない。
「わたくしはここ数日のうちに隣国に嫁ぐ身だというのに」
「さればだ。貴女の愛する男は、隣国ではなく此処にいる。そのように、貴女のお父上に知らしめなくては」
 男の言葉を娘は聞き咎めた。弾けて消える泡沫のごとき戯れ言とわかっていても、女は反応せずにはいられない。
「まあ。そうなったときに、明らかになるのはわたくしの気持ちだけ? 貴男の誠意はわたくしの上にはありませんの?」
男は喉の奥で笑った。むきになった娘の言葉を快く聞いたようだった。
「無論、それも含めてだ。私の愛は当然のごとく、貴女の上にある」
 女の顔から怒りは消えた。
 娘は少しだけ身を起こして、男の体の上から恋人の顔を見つめた。
 既に回答は為されている。
 甘い言葉の上に、柔らかな表情たろうと意識を払ってはいる。だが男は既に、恋人を奪われることを予期していた。
 女もまた。
 予め喪われるとわかっていたからこそ、この男との蜜月は甘く濃厚だったのだ。
 女は夢想する。この男が自分を遠くに連れ出し、見知らぬ地で愛を育み続ける様を。あるいは男が提案するとおり、この場所で心と体を互いに結んだことが公に明るみに出て、父王の諒解を得、自分と男とが晴れて夫婦となれる日を。
 だが夢は所詮夢でしかない。
 朝日がひとたび輝けば、露はとけて消えるものだ。
 女はひとつ息を吐いて、思い切ったように身を起こした。
「もう参ります」
 寝台から腰をずらし、冷たい床の上に素足を置く。
「わたくしと愛を結び続ける覚悟が、そのじつ貴男にはありますまい」
 振り向かなかったが、背後で男が動揺するのが気配で感じ取れた。
「そしてそれは、わたくしも同じこと」
 娘は石床の上にきっぱりと立ち上がった。
 後背から、急速に男の熱が冷めてゆく。
 それでいい。
 躊躇うような一瞬のあと、
「お元気で、姫」
 男の見栄が、かろうじてその言葉を言わしめた。
「あなたの……」
 男が続けたその語尾は不明瞭で、娘にはよく聞き取れなかった。
 泣いているのかも知れない。だがそれを確かめて男の面目をこれ以上失わせる気は、娘にはなかった。
「ありがとう。……あなたも、お元気で」
 娘は振り返らずに寝室を出た。
 長い黒髪と、足にまとわりつく薄いスカートの裾が翻った。
 女が残り香を置いて去った寝室で、男は体を丸めて孤独に耐えた。
 中庭を歩く女の周囲で、羽虫が舞い、鳥が囀りを始めている。
 朝焼けがすべてを緋色に染めようと、勢いを増しつつあった。
 素足で庭草を踏みしめる娘の足に、朝露が絡みつく。
 わたくしたちの涙のようだ、と娘は思った。誰もいない場所で、人知れずしとどに濡れる。
 夜明け前の風が、男の熱を娘の体から跡形もなく吹き飛ばしていった。
 ただ一カ所。娘の体奥にだけ、まだ熱は残っている。
 これがあの男から得たすべてのものだ。小さな燠火のような、消えることのない柔らかな炎。
 そう思った途端に、胸の奥から強い何かがこみ上げた。
 娘は風に顔を向けた。
 右腕で乱暴にその頬をぬぐい、黙って早足で歩き続ける。
 鳥の囀りがいっそう強くなる。朝日が、娘の顔を赤く照らし出した。
 しゃくり上げるのを必死でこらえながら、娘は、滲んだ目で朝日をひしと見据えた。
 娘の歩む先に、誰も知らぬ未来が横たわっていた。




                                      (了)




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