野宿

 

2005/09/18
老いた楽師と弟子の少年
★★☆



 老いた楽師が一人の少年を弟子に持っていた。
 楽師はむかしは諸国に名を馳せた吟遊詩人だったが、今はあまりに老いて殆ど目が利かず、かつては伸びやかだった声も失われて久しかった。しかし竪琴を奏でる指と、歌を諳んじまた作り出す才能は以前と変わらず、名手と呼ぶにふさわしかった。
 少年は老楽師の目となり声となって、彼と共に諸国を渡り歩いた。
 二人の周りには、いつも人の波が絶えなかった。商人も農民も女も子どもも、誰もが少年の声と楽師の竪琴と悲しい歌に聴き惚れた。通りがかった貴族が馬を止めて楽に聴き入り、金貨の入った袋を寄越したり、あるいは城に招いてそこで一冬を過ごすことを許されたりもした。
 日々の糧に余るほどの金銭を手にしたとき、老楽師は決まって、町の路地裏の貧しい子供たちにそれを投げ与えた。少年はそれを勿体ないと思わないではなかったが、同時に、そうした行為が楽師の音に裏のない美しさを生みだしていることにも気づいていた。
 二人だけの夜、木々の陰や広場の片隅や草原のただ中で焚き火を挟んでくつろぐ時が、少年と楽師がもっとも好んだ時間だった。
 老楽師は少年が初めて聞くような、勇ましくも切ない武勇譚や哀しい恋愛物語をよく知っていた。楽師自体は穏やかで優しい人柄なのに、紡ぎ出す歌は勇壮で繊細で結末には救いがなかった。
「なぜ悲しい歌ばかりを歌うのですか?」
 歌い慣れた者だけが持つ、よく通る澄んだ声で少年は師に尋ねた。
 師は完爾と微笑んで、白く濁った目を少年に向けた。
「それが生きるということだからだよ。絶望を抱くということが」
 少年にはよくわからなかった。それを正直に師に告げた。
 老楽師は微笑んで、こう言った。
「今におまえにもわかるときが来るとも」

 ある夕まぐれ、人気のない山道を二人連れ立って歩いていると、楽師が唐突に立ち止まった。
 少年が声をかけようとするのを腕で制して、山間の虚空に向かって利かぬ目を凝らしていた。
 馬の嘶きと馬蹄の轟き。
 遠くから呀する複数のそれを、少年も確かに聴いた。恐ろしい速さで二人に近づいてきていることも。
 楽師は少年と少年の荷、そして己の竪琴を近くの藪の中へ押し込んだ。そして決して声や物音を立ててはいけないと少年に約束させた。
 楽師が道に戻るとほぼ同時に、ならず者たちが馬を馳せて街道を近づいてきた。
 少年は楽師の言いつけを守った。身動きせず、息を潜めて、耳だけに意識を集中させて、夜盗と師とのやりとりを聞いていた。楽師は夜盗の求めに応じて己の荷を差し出したようだった。続いて師の悲鳴に下卑た笑い声が重なり、再び馬蹄が山間に鳴り響いて、やがて静けさを取り戻した。
 夜盗が去ったと確信するや少年は師のもとへと駆け寄った。
 楽師は腹に剣を刺されて道に倒れていた。従順であろうと反抗しようと、どのみち盗賊どもは彼を殺したに違いなかった。泣きながら師を手当てしようとする少年の手を制して、楽師は言葉を紡いだ。
「もう無理だ。儂は死ぬ」
 少年の熱い涙が楽師の老いた頬に止めどなく落ちた。
「歌いなさい。おまえの声は美しい。いつか儂以上の詩人になれるだろう。生きる苦しみを歌うがいい。苦しむために生まれた者たちの嘆きを。死出の旅にのみ希望を見いだす者たちの不幸を。悲しみを歌うのだ。生まれ落ちた瞬間に縊られるはずだった儂の最後の弟子よ。絶望の先にある生きる意味を、我らだけが歌い継げる。それが神様に与えられた、我々の役目だ」
 長年竪琴を奏でてきた楽師の手が少年の滑らかな手を撫でて、それきり地に落ちた。
 少年は師の名を呼んでいつまでも泣き続けた。

 山間に師の亡骸を埋めて、少年は一人で旅立った。
 遺品となった師の竪琴を背に下げて。
 道すがら、少年は師に教わったたくさんの歌を反芻し続けた。二度と教わることができない詩を、旋律を、声を、繰り返し山に向かって歌い続けた。その後誰に師事することもなく、少年は詩人として一人立ちした。
 そして師が予言したとおりの、師以上に高名な吟遊詩人になった。



 その吟遊詩人は若く美しかったが、ごく老いた者しか知らぬような、今や忘れられた古の歌をよく知っていた。よく通る声を持ち、音と言葉の魔力でもって絶望を紡ぎ、悲しみを歌い上げた。彼はまた、伝え聞いたと同じくらい多くの、優れた歌も作り出した。自身は文字も知らず、ついに紙にも筆にも手を触れることがないまま世を去ったが、彼の歌に惚れ込んだある町の僧が彼の歌を羊皮紙に書き留め、後世に伝えた。
 その羊皮紙を開けば今でも、語り継がれた絶望と、生み出された悲しみの歌の旋律を知ることができる。だが、彼が指から紡ぎ出した本当の音は、喉から溢れた本当の声は、今は誰にも聞くことができない。
 彼の教えは羊皮紙にではなく、巷間で歌う弟子たちの指と喉と心のうちにのみ遺されている。



                                      (了)




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