乱世

 

2007/02/01
異国の歌うたいと草の民
☆☆☆
残酷表現あり


 草原を渡る民の一団のもとに、ある日異国の男が旅装でやってきた。
 意味の伝わる少しの言葉と、伝わらない多くの歌を知っていた。長い弓と大きな四弦楽器を背に負い、抑揚のある澄んだ声で歌を風に乗せた。
 旅人は数年を一団とともに過ごした。その間に多くの新しい言葉を覚え、次第に草の民と意志を交わせるようになった。しまいには草の民の言葉で歌も歌った。その音楽は異国ふうで、人々には聞き慣れぬ響きではあったけれども。
 男の歌のもっとも熱心な聞き手は、まだ幼い族長の末の娘だった。男は少女のために多くの歌を作った。それは恋歌に似ていると族長は思ったが、客人に対して何も云わなかった。

 幾度めかの夏。
 果てしない空に広がる雲のように、いずこかよりやってきた騎馬甲冑の軍隊が草原に沸き上がった。
 草の民の村やテントを襲い、略奪と殺戮を繰り返した。
 やがてそれは、歌うたいの男が暮らす一団にも迫ってきた。
 草原の民は馬に乗り弓を引き絞った。今では草の民の服を着て、彼らの暮らしにすっかり馴染んだ歌うたいの男も、埃を被った弓を楽器の替わりに手にした。
 族長は末の娘を歌うたいに預けた。ようよう少女の階を昇り切りつつある小さな娘を。
 辱めを兵士に受けるくらいなら殺してくれと、父親は男に頼んだ。

 戦闘は一夜で済んだ。
 歌うたいの男は、族長の娘をかばって敵兵に向かい矢をつがえたところを後ろから殴られ、弓弦を引く右手の指を四本切り落とされた。
 命を助けられたのは、歌うたいの顔が兵士たちの顔とよく似ていたからだった。
 彼らは皆、彼と同郷の者たちだった。
 歌うたいは、彼らにわかる言葉で、自分が連れた少女に危害を加えないよう兵士たちに懇願した。自国の言葉の筈なのに、それらはずいぶん耳遠く聞こえた。歌うたいの頼みに耳を傾けた兵士たちは笑って少女を立ち上がらせ、その喉笛を掻き切った。
 鮮血が歌うたいの上に飛び散った。髪にも、額にも、頬にも、腕にも。
 手についた血は歌うたい自身の血と混ざり合い、硬い大地に流れ出していった。


 戦の後、捕らえられた歌うたいは軍の指揮官の前に連れ出された。指揮官の足元に、草の民の族長の首が転がっていた。兵士たちの円陣の向こうで女たちの悲鳴が響き続け、それには幼い声も混じっていた。
 娘の血を被ったままの歌うたいは頭を垂れたまま、黙って土を見つめていた。
 視界の上方にある指揮官の足まではほんの七歩ほど。
 怒りよりももっと深い何かが、歌うたいの心をじくじくと蝕んでいた。
 胸のうちに小さな娘の笑い声が甦る。あなたの歌が好きよ、と、その幼くも艶やかな声が繰り返し歌うたいの耳を打つ。
 指揮官は指を無くした歌うたいに命じた。おのが戦績を讃える即興歌を語れと。
 歌うたいは顔を上げて指揮官の顔をまっすぐに見上げた。
 歌うたいは立ち上がり、そして歌った。遠方より運び来たった故郷の旋律で、その耳で学んだ草の民の言葉で、目の前の男を彼が率いる軍に最大限の不幸を呼び寄せんとする呪いの歌を。
 それは短い歌で、歌うたいはすぐに歌い終えた。
「言葉の意味が分からぬ」
 指揮官が不満げに鼻を鳴らす。
 歌うたいはうつろに微笑んだ。
「将軍様のための、最も効果のある言祝ぎ歌でございます」
 その目には憎しみよりなお強い狂気が宿っていた。
 兵士達によって乱暴に巻かれた指を無くした手の包帯から、血が滴っていった。


 数日のうち、諸部族が結託して出来上がった草原の民の大軍が、歌うたいを捕らえた異国の兵士達の軍を襲った。指揮官は剣を取り手綱を引いて立ち向かったが、もとより地の利を得られず、今は数でも競り負けた。復讐に狂った草の民は敗走した侵略者を蹂躙し、捕らえられた指揮官は生きたまま半身を穴埋めにされて死ぬまで石を投げられた。
 異国の人々の遺体は、烏や狼が群がって食うに任された。
 その中に、右手の指を四本無くした歌人ふうの男の骸もあった。
 その背に、腰に、草の民の矢が無数に突き立っていた。
 裏切り者として殺され、葬られることもなく、その魂は風に散っていった。




 長い長い年月の後。
 草原を渡る民の一団のもとに、ある日異国の男が旅装でやってきた。
 意味の伝わる少しの言葉と、伝わらない多くの歌を知っていた。長い弓と大きな四弦楽器を背に負い、抑揚のある澄んだ声で歌を風に乗せた。
「その歌知ってる!」
 族長の小さな末娘が歌うたいを指さして叫んだ。
 そして歌い出した。草の民の言葉で。
 その旋律は、歌うたいが故郷で習い覚えた古い恋歌によく似ていた。
 どこでその歌を知ったのか、と歌うたいが尋ねると、少女は笑って答えた。
「みんな知ってるわ! むかし歌の神様が草原に来てね、いろんな歌をわたしたちに贈ってくださったの!」
 それは草原の民の間で語り継がれたひとつの物語だった。
 戦乱を憂えた神が風となってこの地に吹き寄せ、平和のための新たな歌をいくつも草の民に預けていったと。
 その神は草原の民の娘に恋をし、さまざまな恋歌を贈った。
 原を渡る民の中には、自分たちはその神と娘との末裔だと名乗る一団もあるという。




 草原で耳を澄ませば、今も尚。
 異国の歌うたいが草原の民の小さな娘に捧げる恋歌が、風に混じって聞こえてくる。



                                      (了)




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