双眸

 

07/05/24
領主と詩人
★☆☆
R


 ある小領主が、ひとりの詩人を囲っていた。
 領主は詩人を人前には出さず、閨と裏庭とだけを往来することを許した。
 詩人は不平を述べるでもなくその命令に従った。
 ある星の夜、庭の噴水の縁に腰掛けて詩人は竪琴を爪弾いていた。
 領主は少し離れた芝の上に立って、その姿をただ眺めていた。
 木の葉のそよぎにも似た詩人の歌声が、柔らかな初夏の風に舞う。
 手に入れている筈なのに、手の届かぬところにあるような錯覚が、領主の胸を支配する。
 ついに黙っていることに堪えかねて、領主は言葉を紡いだ。
「ここを出ることを許したら、おまえはなんとする」
 詩人は歌をやめた。
 夜の闇に輝く黒い双眸が、領主をひたと見た。
 詩人は領主に向けて微笑んだ。
 その微笑は領主を安堵させなかった。
「今と同じです。歌を歌います。ここを出ることをお許しいただけたなら」
 領主は言葉もなくただ寵愛する男を見つめた。
「私は何処へでも出歩き、琴を爪弾いて、歌を歌って回るでしょう。多くの人々が、貴方と同様に、私の声に耳を傾けてくれることを喜びながら」
 領主のサロンには多くの文人達が集う。その席に、この詩人を置いたことはまだなかった。
 未来永劫ないのだ、と領主は暗い心で思う。
 人々がこの詩人を認め褒めそやす前に、自分がこの男を命ごと食い尽くすつもりなのだから。
 領主の心を知ってか知らずか、詩人は笑みをはいたまま、再び竪琴を爪弾き出した。
「あなたの心が満たされると言うことはないのです。私が歌と同様に、貴方に命を捧げても。貴方がご覧になるのは私ではなく、私が持つ歌声の魔力と、この皮膚の上に現れる表面的な若さのみなのですから」
 領主は詩人の言葉の意味がわからず、当惑した。
 詩人は手を止め、再び領主を見た。
「貴方にはおわかりになりますまい」
 謎めいた微笑が領主の心を震わせた。

 程なくして詩人は病に罹った。
 皮膚の上に黒い染みが多く現れ、美しかったその声はしわがれてきた。
 領主は詩人への執着を失った。館を追われ、病に利かなくなった足を引きずりながら、詩人は門をくぐって外の世界へと出ていった。
 世界は美しかった。
 弱った詩人は感動に涙を頬に流しながら、街道をゆっくり歩いていった。
 領主の館には、閨を温める為の新しい女が既に呼ばれていた。
「この世に存在せぬものを、人はなんと愚かしくも求めるのだろう。この私も含めて」
 そう呟く詩人の顔は、笑っているようでも悲しんでいるようでもあった。
 詩人は震える指で竪琴をかき鳴らした。
 弱々しいその音は風に流され、やがて雨が止むように、ゆっくりと消えていった。



                                      (了)




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