黄昏

 

2006/04/22
遠い昔に喪われた恋
★★☆



 まだ詩人見習いであった少年の時分から、その吟遊詩人は師匠に連れられてその屋敷へ頻々と立ち寄っていた。
 古いだけでなく、時に取り残されて寂れたその屋敷は、老いた女主が取り仕切っていた。師匠が死んだ後も、老女は詩人にとって大事なパトロンであった。
 老女に夫はなかった。硬く引き結んだ薄い唇と張りだした顎は、彼女が我の強い人間であることを教えていた。その白い面に貼りついた厳しい表情が、老女の人生が平坦ならざるものであったことを示していた。
 若い吟遊詩人は、老女のもとを訪れて、不機嫌にさせずに館を辞すことができる数少ない者のひとりだった。近隣の土地を回る数年に一度、詩人は彼女のもとを訪れた。竪琴をつま弾き、諸国で仕入れてきた恋や政治や戦の勲を、ときに面白おかしく、ときに哀切を込めて歌い上げた。館を去るとき、老女はいつも詩人に、一介の詩人の身に余るほどの金銀や宝石を与えた。
 館を去る季節は、いつも秋だった。
 ある年、詩人は、大河を幾つか隔てた領地の、大公の消息を歌にした。静寂が夏の生気を追いやる夜、火を入れ始めたばかりの暖炉の傍で、その大公の歌を始めた途端に、女主の顔は硬く強ばった。顔色が見る間に青ざめ、手にしていた刺繍針を放り出して立ち上がった。
 詩人は大公の勢威が領地に遍く満ち、子孫が産まれ栄える様を歌い上げている最中だった。
 若い詩人は女主の剣幕に驚いて歌いやめた。老女は無言のまま、手振りで、詩人に歌を続けるように命じた。それで詩人は最期まで歌った。権勢を誇り贅を尽くした暮らしの果てに、大公は年々体が利かなくなりつつあった。
 老女は唇を硬く引き結んだまま立ち続けて、詩人が歌う大公の消息を聞いていた。一言も言葉は発せず、ただ、赤々と燃える暖炉の火を憎い仇のように睨み据えていた。
 やがて詩人は歌い終わり、竪琴を置いて口をつぐんだ。老女は動かず、暖炉を向いて佇んだままだった。
「歌はこれで終わりです」
 長い長い沈黙に耐えかねて、詩人は言葉を紡いだ。部屋の薄闇の中で、刺繍に針を通しながら、侍女達が無言のままの主を不安げに見つめている。
「わかっています」
 女主はただ答え、動かなかった。
「今宵はもうお下がり」
 詩人は黙って立ち上がり、老女に頭を下げて、竪琴を抱えて部屋を出た。
 翌朝、老女は何事もなかったかのように振る舞い、詩人も昨夜の出来事を蒸し返すことはしなかった。その年の去り際も詩人は先の通り、過ぎるほどの宝飾品を与えられ、老女に丁寧に礼を言って館を辞した。

 それから数年が過ぎた。
 晩秋、吟遊詩人が老女のもとを訪ねると、老女は既に病に伏せっていた。
 侍医の見立てではもはやここ二、三日で他界するであろうとのことだった。
 侍医は詩人が女主に会うことを許さず、詩人は黙ってその場を去ろうとした。
 だが奥から侍女が現れて詩人を呼んだ。
 奥さまのたってのお呼びだ、と侍女は詩人に告げた。
 詩人は女主の寝室に案内された。
 かつて豪奢であった、古めかしい寝台の上で、起き上がることもできず、老女が苦しげに息をしている。詩人の記憶にあった以上に女主は老いて痩せ衰え、干からびて、目だけがぎょろりと飛び出していた。
 その目がぐるりと動いて詩人を捕らえた。
 詩人に向けて、老女が萎びた手を伸ばす。詩人は恭しくその手を取った。
 老女が語る。苦しげに、少しずつ息をつきながら。
「遙か昔、まだわたくしが愚かな若い娘だったころ、わたくしには将来を言い交わした青年があった。彼は婚約の証として家伝の指輪をわたくしに授け、身を立てるために王都へ出向き、そして結局戻って来はせなんだ。王都で勢ある家の婦人と昵懇になり、その方と結婚した。わたくしは笑い者にされ、生涯この地で独り身を通した」
 老女が咳き込む。唾液に絡んだ血が、クッションを汚した。
「わたくしの寿命はもう尽きる。わたくしの代わりに、そなたに伝言を頼みたい」
 詩人は優しく頷いた。
「何なりと」
「先年そなたが炉辺で大公の話をしたな」
「はい」
「その大公のもとへ行き、わたくしの名前を出し、わたくしの積年の恨みと呪詛を歌にして伝えておくれ。わたくしを捨てた男への憎悪を、おまえの重い言霊と美しい声とで、あの男の耳に刻んで欲しい」
 それだけをようように喉から絞り出し、女主はがっくりとくずおれて首をのけぞらせた。
「奥さま」
 詩人の呼びかけに、老女の口がわずかに開く。
「指輪・・・・・指輪を」
 老女が詩人の手に預けた手の人差し指に、宝石をはめ込んだ金の指輪が填められていた。
「お取り」
 詩人はそっと指から指輪を抜き、困惑の面持ちで老女を見下ろした。
 老女の呼吸はもはや浅く遠くなりつつある。今際の際にあるのは明白だった。
 詩人は指輪をおしいただきつつ、言葉を紡いだ。
「奥さまのご命令の通りにいたします。大公閣下のもとへ赴き、かの方へ歌を奏上し、この指輪を渡して参ります」
 そして躊躇しながら、こう続けた。
「長の年月の奥さまのご心情を、大公閣下の耳と心に届けて参ります。我が歌にて、恨みとうらはらな、かの方への深い愛情を」
 その言葉を聞いた途端、老女の目がかっと見開かれた。
 血の気を失った面に、強い怒りが閃いた。
 だがすぐにそれは消え、唇が優しく微笑む形に象られた。
 そして目が、ゆっくりと生気を失っていった。
 詩人の手に委ねられたままの手が力を失う。
 傍にいた侍医が女主にかがみ込み、侍女達が金切り声をあげて寝台に走り寄った。
 その場にいた誰もが、詩人の存在を忘れた。
 詩人は隅に下がって、暫く老女の亡骸を見下ろしていた。
 女主の表情の平穏に嘘はない。
 詩人は指輪を懐に入れ、老女に向かって深々と頭を下げ、その場を辞した。
 館の周囲では木々の紅葉が始まっていた。
 深閑とした中にかさりと音を立てて散っていく、葉の一枚一枚。
 逆光に照らされたそれは、まるで遠い恋の幻のようだ。
 黄昏のせまる秋の道を、詩人は黙って歩んでいった。



                                      (了)

関連作品:遠い幻 永遠



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