遠い幻

 

2006/04/22
遠い昔に喪われた恋
★★☆



 季節は冬だった。
 老いた大公はもはや自力で歩くことは難しいほど体が利かなくなってはいたが、その権力は隠然と領地に満ちていた。
 遠くは国境の穀倉の麦一粒、近くは共に城で暮らす幼い曾孫の心に至るまで、すべて彼が支配していた。

 冬至を迎える十日ほど前のこと。
 大公の住まう館は既に厚い雪に覆われていた。一族は炉辺に椅子を持ち寄って縮こまりながら、長い冬のつれづれを、芸人たちの歌や芝居で紛らわしていた。
 芸を喜ぶのはおもに若い者たちだった。彼らは手をたたき、はしゃぎ、芸人達のおべっかに陽気に笑い転げた。歳のいった女親たちは後ろに下がって、彼らの悪ふざけが過ぎぬように監視しつつ、針仕事に従事していた。男親達は酒を傾け政治談義に花を咲かせながら、踊り子達の艶やかな肌を時折目でなぞる。
 老いた大公は一番暖炉に近いところに陣取っていた。芸人達を囲む輪からは離れて安楽椅子に腰掛け、ショールを幾重にも巻きつけて、起きているか眠っているかわからぬ程度に首を傾けて目を閉じていた。
 芸人の一座の中に、伸びやかな声を持つ年若い吟遊詩人がいた。詩人は一座の巻き起こす喧噪には加わらず、黙って彼らを観察していた。時折座長に求められて歌を歌うことはあったが、それとて、申し訳程度に竪琴をつま弾くだけで、雇い手の貴族達を満足させるほどではなかった。
 やがて大公の孫娘が、彼に得意の歌があれば歌って聞かせよとせがんだ。吟遊詩人は微笑を浮かべて腰を上げ、座の中心に歩み出て、娘にお辞儀をした。
「では、この秋につくりました拙い歌を」
 そう前置いて詩人は歌い出した。
 竪琴を奏でる指に指輪が光った。吟遊詩人が持つにしては豪華な、宝石を埋め込んだ金の指輪だった。
 詩人は歌った。結婚を誓った恋人に忘れ去られ、長の年月寂しく暮らす美姫の話を。
 恋人が自分のもとに置いていった指輪だけが、姫の心の支えだった。
 やがて詩人は歌をやめた。歌は、姫が孤独に死んだところで終わっていた。
 周囲はしんとして、悲しい余韻に浸っていた。歌を求めた孫娘は姫の結末に目を充血させてすすり上げている。
 暖炉の傍で、老いた大公が瞼を開いていた。
 その横顔は物思わしげな憂いに沈んでいた。
 黙する主をよそに人々はようやく身動きし、詩人の詩才と歌の才を褒め称え、彼に金や装飾品を投げて寄越した。
 大公がゆっくりと頭を巡らせる。
 重たげな瞼の奥から、歌を歌った詩人を見た。その若々しい手に填められた金の指輪も。
 大公の手がゆっくりと翻る。その意図を察した跡取りの息子が、己の兄弟や子孫に告げた。
 大公と詩人を残してこの場を去るようにと。
 人々は誰も反対しなかった。大公の末裔達は従順に部屋を出、呼ばれた芸人達はぞろぞろと返される。
 やがて薪が爆ぜる音が響き、大公と詩人のみが沈黙のうちに対峙していた。
 老大公が厳めしい表情で掌を差し出す。詩人は黙って歩み寄り、指から指輪を引き抜いて大公の手の上に乗せた。
 大公が手でそれを弄び、眺める。
「何処で手に入れた」
 重々しい声が周囲を圧した。
 詩人は怖れげもなく、柔らかな声で答えた。
「大河を幾つか隔てた国の領地にお住まいのご婦人より頂戴いたしました。大公閣下にお渡しするようにと」
 大公の瞳が炉火にきらめく。
「そのご婦人は息災か」
「いえ。既に他界されました。この秋に」
 大公の唇が皮肉げにめくれ上がった、笑おうとしているかのようだった。
「それは儂がかつて言い寄り、捨てた女よ。この指輪を渡したきりでな。わざわざ突き返してくるとは、あれは死に際にさぞかし儂への恨みを申していたであろう」
 詩人は首を横に振った。
「私がいただいた言づてはそのような類のものではございません」
 詩人の返答に、大公は眉を上げた。
「では何だ。呪いの言葉か。憎しみの声か?」
「いいえ」
 詩人は否定した。
「かの方よりのお言葉を申し上げます。・・・・・我が愛する御方へ。長い人生において、御身が幸せでありましたように。今後も幸せでありますように。また御身が健やかでありましたように。今後も健やかでありますように。・・・そのように、病床から仰せられました」
「ありえんことだ。あの気の強い女が」
 大公が吐き捨てる。
「おまえは嘘を申しておる」
 詩人はゆっくりと言葉を紡いだ。
「確かに私は、ご婦人から、大公閣下にお恨みを申し上げよと命じられました」
「それみろ。儂は知っておったぞ」
 詩人は大公の茶化しには構わず続けた。
「ですがそれはかの方の本心ではございません」
「何故わかる」
「簡単です。かの方は最期のときまで、その指輪を身につけておいででした」
 大公が口を開いた。何か反論をしようとでもいうように。
「貴方を憎み恨もうとなさっても、かの方にはそれがおできになりませんでした。一時なりとも愛した方を、そうも長く憎むことなどできることではありません。ましてや誰が望むでしょう。死して後まで、かつて愛した方に悪い印象を持たれたいなどと」
 大公は無言でその背を丸めた。
 大きな掌が、指輪を握りしめる。
「あれはどんな最期だった」
「苦しんでおいででした。ですがそのお時間は長くはなかったと、そう聞いております」
「夫はあったのか」
「いらっしゃいませんでした。お子さまも」
「たった独りで死んで、それでも儂を恨まなかったというのか」
「恨みよりも、閣下へのご愛情がより勝っておいででした。ご自分では決してそう仰いませんでしたが」
「・・・・愚かで哀れな女よ」
 大公の横顔が微笑む。
 ややあって、大公は詩人に振り向いた。
「おまえの用向きはしかとわかった。この指輪は儂が預かる。下がれ」
 詩人は黙礼して踵を返し、そのまま部屋を出ていった。
 大公はしばし手の中で指輪を弄ぶまま、ただ暖炉の火を見つめていた。
 暖炉の中で木がぱちぱちと爆ぜる。
 やがて大公は両手で顔を覆い、膝に顔を埋めた。
 大公の喉から、渇いた嗚咽が漏れ出した。
 あまりにもかすかなそれは、誰の耳にも届かぬままだった。

 退出した詩人は一座の待つ宿へ戻り、部屋の隅に腰掛けて竪琴を抱え直した。
 繊細な指が弦をつまびく。
 周囲で騒ぎ立てる仲間達を後目に、詩人は新たな歌を口の中で転がし始めた。
 長い長い時を経て、失った愛を取り戻す恋人達の話だった。



                                      (了)

関連作品:黄昏 永遠



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