2005/09/18
王子に恋して娘になったひきがえる
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城の庭を這う一匹のひきがえるが、若く美しい王子さまに恋をしました。
宮廷では満月の晩、決まって舞踏会が開かれました。招待状が無くても、よい身なりをしていれば誰でも入れてくれる舞踏会でした。ひきがえるは一度でいいから、人間の姿をして王子さまのもとにゆき、彼と踊りたいと思いました。
それでひきがえるはお月様に相談しました。お月様が大きく明るく輝く満月のとき、お月様の魔法が最も強くなるのを知っていたのでした。
誰にでも優しく光を投げかけるお月様は、ひきがえるの頼み事を聞いてやってもよいとおっしゃいました。ですが、くぎを差すことも忘れませんでした。
「人の姿を与えることはできても、人の声までは与えることはできぬ。また姿とて永遠ではなく、私の光が弱まる朝には魔法も解けて、おまえは蛙にも戻れずに消えてなくなることになるぞ」
「かまいません」
ひきがえるは言いました。
「わたしを人間にしてください」
お月様はあたうかぎりの優しさでもって、あわれなひきがえるに魔法をかけてやりました。
醜いひきがえるが月の光を浴びた後、そこに立っていたのは、夢見るようにうつくしい若い娘でした。月の色の髪と瞳と、月光を弾くぜいたくなドレスと、銀糸で縁取った小さな靴を身につけていました。
娘になったひきがえるは喜んでお月様にお礼を言おうとしました。ところが可憐な喉から出てきたのは、嗄れた醜い音だけでした。娘はびっくりして口をつぐんで、思わず手を口に当てました。白くて細い五本の指が、ふっくらした唇に触れました。
「夜が更けぬうちに早くお行き」
お月様はやさしく娘に語りかけ、娘は頷いて、舞踏会が開かれている広間へと歩き出しました。
月明かりに照らされたその足取りは、華やかな蝶のようでした。
いずこよりか現れた若く美しい娘は、王子さまの心を虜にしました。娘は従順で、踊りも上手で、ただ、言葉を一切話しませんでした。声さえも上げませんでした。王子さまは娘の姿が美しいのだから声も美しいに違いない、ぜひ声を聞いてみたいと望みましたが、娘は黙って首を横に振るだけでした。王子さまは娘の柔らかな手を取り、テラスに佇んで話しかけ、マシュマロのような頬にやさしく口づけました。娘は頬を赤らめて幸せそうに微笑み、そうすると美しい顔はもっと美しく輝くのでした。
夜が更けて舞踏会がお開きになった後、王子さまは娘をそっと誘いました。娘ははにかんで俯きましたが、王子さまに促されるままに、彼の寝室へと黙ってついてゆきました。
娘は決して声を上げませんでした。
ただ吐息が、王子さまと同じくらい熱く激しく発せられました。薔薇の蕾のような唇が、声でなく王子さまの肌に触れることで、「お慕いしています」という言葉を幾度も伝えました。王子さまは娘がすっかり可愛くなって、閨の中で娘にいろいろな約束をしました。城に迎えるとか、馬を贈るとか、狩猟に招待するとか・・・娘はそうした約束の逐一を柔らかな微笑で聞いていましたが、月の瞳の色は寂しげでした。約束が叶うとは思っていない目をしているのでした。王子さまはかわいそうになって、娘にもっといろいろな約束をしたのですが、そのつど娘は黙って微笑むばかりでした。
夜明け前。
なにかに呼ばれたように、娘はするりと王子さまの寝床を抜け出しました。王子さまも目を覚まし、娘にどこへ行くのかと問いかけました。娘はただ首を横に振っただけで、裸足のまま部屋の外へと走り出しました。驚いた王子さまは必死で追いかけましたが、どうしても娘に追いつけませんでした。娘は庭の繁みの中に飛び込み、それきり王子さまの前から姿を消しました。
そして夜が明けました。
娘の姿はどこにもありませんでした。
王子さまは呆気にとられて庭を見つめました。
庭に人の気配はなく、ただ秋の風だけが舞っていました。
そして遠い西の空では、お月様が、今しも光を失って沈もうとしていました。
(了)
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