井戸

 

2005/08/24
旅に倒れる男
☆☆☆



 病に冒された旅人が、高熱に襲われながらもある村に辿りつきました。
 旅人は水を求めて家々の戸を叩きました。
「お願いです。柄杓に一杯の水をください」
 病が伝染るのを怖れた村の人々は、みな旅人の鼻先で扉を閉め、錠を固く閉ざしました。
 旅人はしかたなく広場にある井戸まで這ってゆきました。釣瓶を使って井戸から水を汲もうとしましたが、力つきて果たせず、そのまま井戸の傍にくずおれました。
「なんと情けない人々だ。死にゆく旅人を冷たく見放す村など、滅びてしまえばいい」
 千里の遠耳と万里に届く腕を持つ盲いた復讐の女神が、その声を聞き入れぬはずはありませんでした。
 翌朝、村の人たちは、旅人が井戸に寄りかかるようにして死んでいるのを発見しました。
 祈りの言葉を唱えるお坊さまも、棺桶職人も、墓堀り人足も、旅人の弔いのために相応の代価を求めましたが、旅人の袋には黴びたパンの一切れも入っていませんでした。
 村人たちは村はずれの墓地まで旅人を運んで、そこに遺骸を放り投げました。
 そして旅人のことは忘れました。
 しかし女神の思惑で、井戸の水には、死ぬ前に旅人の吐いた血が数滴混じっていたのでした。
 やがて村には疫病が起こりました。さながら、地下から地獄がせり上がって村を呑み込んだかと思われるほどの凄まじさでした。
 お坊様も棺桶職人も墓堀り人足も、みな水を求めて喉をかきむしりながら死にました。
 幸いにして病に罹らなかった者は伝染する前に家族を捨てて村を去り、村の最後の病人が死んで、村は廃墟となりました。

 数年の後。
 旅の老婆が現れて、広場の井戸から水を汲んで飲みました。
 それは旅に出たきり帰らぬ息子を探しに来た母親でした。
 助け手はむろん無く、老婆は廃墟から出ることもできずに病に苦しんで死にました。
 村はずれの墓地では、風雪に晒された白いしゃれこうべがカタカタと泣きました。



                                      (了)




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