幼き日々

 

2007/02/01
お城の小さな姫とお兄さま
★★☆



 お城の小さな姫君には、お気に入りのお兄さまがおられた。
 お兄さまはお父上が諸国を巡られた際に連れてきた異国の人で、丈高く、気品に満ちておられた。
 お兄さまは姫の知らない世界のことをよく知っていた。侍女や乳母やに聞かせてもらうお話よりずっと遠くの地で起きた出来事を、それはそれは上手に話してくださった。
 小さな姫は目を輝かせてお兄さまのお話を聞いていた。
 お兄さまはその手に剣を持つことはなかった。姫君の実の兄たちが、といってもお兄さまより幾つも年下ではあったのだが、幾度かお兄さまに決闘ごっこをけしかけなさった。そのたびお兄さまは笑って彼らをやり過ごしていた。姫はそれがご不満だった。お兄さまなら、野卑でもの知らずの実兄たちよりずっとうまく剣を扱えるはずだと、そう信じておられたからだった。
 一度だけ、実兄たちがなにかで凄くお兄さまを怒らせて、お兄さまが彼らとやり合ったことがあった。お兄さまは実兄の一人から渡された剣を鋭く操って、たちまち兄たちをやりこめておしまいになった。姫君はその剣捌きを惚れ惚れとご覧になったが、それから後、お兄さまはお城での立場が悪くなってしまった。お父上や実兄たちが、お兄さまを以前より冷たく扱うようになったからだった。
 小さな姫だけは、昔と変わらず、背の高いお兄さまにまとわりついては彼に物語をせがんだ。


 姫が十一の春を迎えたその年、お兄さまの整った顔はいつも曇るようになっておられた。
 姫君はお兄さまにその訳を尋ねられた。お兄さまは困ったように笑って、やがて笑みを止めて姫をただじっと見つめた。
 姫君は恥ずかしさに居心地が悪くなって、頬を真っ赤になさりながら、それでも視線を外すことなくお兄さまと見つめ合った。
「秘密の話をしよう」
 ややあって、囁くようにお兄さまは仰った。
「私がこの城を出るといったら、姫は一緒に来るかい」
 姫君はびっくりして、口もきけぬまま、大きな目をぱちくりなさった。
「この城で、姫は私のいちばんの味方だった。私は姫を外に連れ出して、姫と共に自分のふるさとへ帰りたいんだ」
 姫の心に、さまざまな物語の一場面が浮かび上がった。恋する王子と手に手を取って捕らわれた城を出、幸せを得る美姫たちの物語。
 姫の頬は今まで以上に赤く染まった。
 姫君はお気づきにはならなかった。自分を見つめるお兄さまの目は確かに真剣だったが、それはぞっとするほど暗い目だった。
 お兄さまは黙って姫に手を伸ばした。その大きくて温かな手が、包み込むように姫の項を捕らえた。
「お兄さま」
 疑うことを知らぬ柔らかな声が、小さな姫の唇から漏れる。
 お兄さまは姫君を掻き抱こうとしていた動きを止められた。そしてそのまま、凍りついたように、ただ小さな姫の瞳を見下ろしなさった。
 それに答える姫君の目は、汚れなき無垢に輝いていた。
 やがてお兄さまの体から、緊張が抜けていった。
 お兄さまはむかしのままに、柔らかく微笑なさって、
「姫は美しい。これからもっと美しくなるだろう。きみの成長をこれ以上傍で見られないのは残念なことだね」
 そっと姫君の唇に口づけた。
 お兄さまが姫君に触れられたのはそれが最後だった。


 どこか遠い国と戦が起こったと、姫はそれだけをお父上から教わりなさった。
 お兄さまをお城で姿を見かけることはそれきりなかった。実兄たちやお父上の態度から、お兄さまはもうこの城にはいないのだと姫君は悟った。
 お兄さまが何処に行ってしまわれたのか、姫君は永遠にご存じないままだった。侍女や乳母ややお母上たちは、女だけが持つ鋭い感覚で、事実を姫から隠したほうがよいと判断したのだった。
 お兄さまはふるさとへお帰りになったのよ、と、彼女たちは姫に伝えた。
 素直な姫はその言葉を信じた。
 姫君はお城の窓から身を乗り出して遠くの空を眺めることが多くなった。空を渡る雲や鳥を眺めながら、姫君は、お兄さまが話してくださった異国のことを思い浮かべて、いつかそこへ行きたいと幾度もお思いになった。
 お父上は戦に勝利した。
 城に凱旋するお父上の軍勢に混じって、処刑するために連れてこられた敵国の王があった。その面立ちは、姫君が親しんだお兄さまの顔とよく似ていた。
 だが姫が、虜囚となった王と対面することはなかった。
 その王が処刑された後も何も知らされぬまま姫君は育ち、やがて大人になられた。




 小さかった姫君は美しくあでやかに成長なさった。
 お父上は新しい領土となった土地を治める部下のもとへ、姫を嫁がせることをお決めになった。
 そうして姫君は生まれて初めて城を出た。
 婚礼道具を車いっぱいに積んだ姫君の一行は平野を渡り、山間の谷を幾つも越えて、嫁ぎ先の城へと進んでいった。姫君は車の帷の奥からその麗しい顔を覗かせて、初めて見る世界をその目に焼きつけられた。
「お兄さまのお話の通りだわ」
 姫君は目を輝かせて、幾度も独り言を呟きなさった。
 婚礼の一行は、かつて姫君がお兄さまと呼んだ異国の人の故郷へと向かっていく。
 やがて姫の目の前に、お兄さまが恋しげに姫に話して聞かせなさった肥沃な平野が広がった。
 それはあまりにもお兄さまのお話の通りの場所で、姫君は思わず微笑まれた。
 成長してなお含むところのない明るい表情と素直なお心が、かつてお兄さまが予言したとおり、以前よりいっそう、姫君を美しく変貌させておいでだった。
 姫君の頬を涙が伝う。
 よろこびとも悲しみとも分かたぬ涙だった。
 お兄さまの故郷を通る姫君の馬車の影が、人血を吸った土の上を辿ってゆく。
 実ることのなかった恋の名残と、果たされることのなかった残酷。それが二つながら、黒い影の中に、人知れずたゆたっていた。



                                      (了)




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