秘密の庭








 森を抜けて小高い丘を昇ると、そこに修道院がある。
 形は小さいが、歴代の王女や王妃を院長とする、由緒ある寺院だ。
 髭を蓄えた壮年の騎士は、従者に引かせた馬に乗って丘を上がっていった。門の前で馬を下り、門番に案内を乞うた。
 鎧はなくとも見まがうはずもない。近隣諸国に勇者として名の知れた、前王の甥である。死んだ父の跡を継ぐ国王はまだ幼いと云ってもよい歳で、彼が国の重鎮となることはすでに決定づけられていた。門番役の老人は慌てて奥へ話を通す。
 老人が奥へ消えて、しばし男は待った。
 やがて空気が動く。再び現れた老人に目をやり、次いで何気なく中庭に目をやって、騎士は動きを止める。
 妙齢をとうに終えた女が、こちらに向かってくる。ことさらに装飾性を排した衣装。だが伸びやかな背筋は昔のままだ。王城で着飾っていたときと何一つ変わらぬ、毅然とした美しさ。
 女はようやく男のもとに到達した。
「お久しぶりでございます」
 俗世を捨てた今となっては、王城にあったとき以上に二人の距離は隔たっている。その距離に安心しているとでも言うのか。女の笑顔は以前より柔らかくさえあった。
「王妃さま」
 女の目に影が射した。
「もう王妃ではありませんわ。夫は死にましたし、私は僧籍に入りましたので」
 二人の間は本当に遠くなった。男はそれを思い知らされた。
「では叔母上とお呼びするべきですかな」
 男は冗談を装って女に云った。女を傷つけるつもりで。だが女は婉然と笑っただけだった。その笑みが、かつて見たこともないもののように思えて、男は戸惑った。
「年若い身で、こんな場所に籠もらずとも。再婚の話さえ多くあったと伺っておりますのに」
 義理の甥と叔母の間柄ではあるが、年齢は男のほうが四つほど下なだけだった。
「死にゆく夫が私の行く末を気にしておりましたので、生前にこちらに来ると約束したのです」
「だが何も修道院でなくとも。年若い王はまだ母御を恋しがっておいでだ」
 女は再び笑った。
「ずいぶん無沙汰でしたし、少し歩きましょうか」
 そう云って、女は門をくぐり、外の世界に踏み出した。
 その後ろ姿を未だ眩しいものと思う自分の気持ちに気づいて、男はほんの少し狼狽えた。


 王であった叔父の二人目の妃に、彼は焦がれた。
 王妃のほうでは、ついぞ男に心を許さなかった。夫の目を盗んで王妃の寝室に忍び込む逢瀬のつど、王妃は男をなじった。暗闇で囁かれる愛の言葉には沈黙が、熱を帯びた視線には冷えた眼差しが返され、人伝手に贈った詩を綴った手紙は、封も切らぬままつき返された。
 男は悲嘆にくれて王城から遠ざかり、辺境の警護についた。そこで侵略者を迎え撃ち、圧倒し、敵の都にまで攻め上った。その間に王都では王の嫡子を王妃が産み、数年が過ぎた。帰還した甥は英雄に祭り上げられ、老いた王の寵を得た。その理由は一つには、甥の母の身分があまりにも低く、王の息子の地位を脅かさなかったからであった。王位継承権を持たぬ武人の甥を王はかわいがり、自分の息子の後見人にすると宣告した。
 男は黙って叔父の言葉を受け入れた。義理の叔母に対する恋心はまだ燻ってはいたが、自らの保身を考える理性がそれを押しとどめた。王妃も男も若いとは呼べぬ歳になり、分別もついた。
 王妃とは親子以上に歳の離れた王はやがて老い、成人にあと二年はかかる王子を継承者に名指しして息絶えた。王妃は隠れるようにして修道院に身を潜め、新王の後見人となった甥は雑事に忙殺された。そのようにして一年近くも過ぎた頃、男は王妃であった女にあることを確かめる為に、どうしても彼女に会わねばならないと思うようになった。
「叔母上」
 前を歩く女に、男はそう呼びかける。
 ほかに呼びようがない。できればかつての閨でのように、名を直接に己の口で呼びたかったが、いまやそのように振る舞える勇気は男の中にはなかった。
 前を歩く女が歩みを止める。振り向いて、男を待った。男は女に追いつく。
「聞かせていただきたい。王のことについてです」
「息子について、何を?」
 女の表情に翳りはない。男は躊躇った。傍で聞く者が無いとはいえ、陽光の中で口にするのは憚られることだった。
「王が生まれた月のことです。公には、夏に叔母上がご出産なさったと思われている」
「ええ。その通りですもの」
 女の瞳に僅かばかりの警戒の気が閃いた。
「それは本当ですか」
「何が仰りたいの」
 女の顔から笑みが消え、男を見つめた。
 それは偶然に過ぎなかった。ある夜、即位したばかりの若い王が口を滑らし、実は自分は春の生まれなのだと男に告げた。このことは他には母とその側近しか知らぬと。父は遠征中で留守であり、無用の心配を避けるために、報告をわざと三月遅らせたのだと。若い王にとっては何気ない小さな秘密に過ぎなかった。だが聞かされた男は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。一度知らされた事実はついに男の頭の中を離れず、男は激務の合間を縫って女に問い質しに現れざるをえなかった。
 男は無言で目の前の女を見つめた。指折って数えるほどの夜、その顔を手に抱き、唇に口づけた。王が生まれる一年前の夏に、女の夫の目を盗んで。
 そして若い王の顔と骨格は、男の若い頃によく似ていた。
 女は黙って男の視線を受け止めている。穏やかな湖水の岸辺のように、弱々しい波紋をその黒い瞳に表したまま、動じる気配さえ見せなかった。
「教えていただきたい。王は‥‥」
「‥‥いいえ」
 言い淀む男の言葉の全てが日の光に曝される前に、女が遮った。
「あなたが何を思っていらっしゃるにせよ」
 唇が優しく微笑む。男は魅入られたように押し黙った。
「それは思い違いですわ」
 女ははっきりと告げた。大きくはない、しかしよく通る声で。
 吹きつける風が、女の衣装の裾をはためかせた。風を飲み込んだ女の袖が大きく膨らむ。
 女の微笑は本物だった。黒い瞳に宿る光が、愛情とも呼べる慕わしさでもって男を捕らえた。
 そして真実を告げていた。
 女の目が男の目を見通す。
 至近の距離に立ちながら、その心はあまりにも遠く離れたところにある。もうずっと昔から。
 その女に決して追いつけないことを、そのとき男は悟った。
 肌を重ねた遠い夜を、男は思いだした。
「かつて私を遠ざけたのは」
 男の言葉が涙に詰まる。
「私を護ってくださる為だったのですね」
 女は答えず、微笑を消さなかった。
「私はあなたのお気持ちを誤解していました。ほんの若造だったあの頃から、たった今まで」
 女がゆっくりと口を開く。
「あなたに理解していただくより重要なことが、私にはあったのですわ。そちらを優先したまでのことです」
 女はそこで一度言葉を切った。次に放つ言葉を口の中に残そうか、少しだけ逡巡し、
「これまでがそうだったように、これからもそのように振る舞います」
 笑みは絶やさぬまま、まっすぐに男を見つめた。
 それが真に訣別の言葉であると、どちらにもわかっていた。
 手は伸ばさなかった。互いに視線だけを重ね合わせ、長いこと見つめ合っていた。
 やがて女の体が修道院に向けられた。視線はまだ男から外さぬまま、女が踏み出す。
「もう戻ります。お目にかかるのもこれきりでしょうね」
 そうして男に背を向けた。尼僧服の裾が翻る。
 歩み去る女の背に、男が最後の言葉を投げた。その女の名前を。
 女は立ち止まった。肩を抱き、空を降り仰いで、そして再び歩き出した。
 男は向きを変え、声を放って従者を呼んだ。気を利かせて遠ざかっていた従者が、乗馬の手綱を掴んで走り寄ってくる。男は馬に飛び乗り、腹を蹴って、街道に向けて勢いよく馬を走らせた。その後を従者が追って行き、彼らは去った。
 秘密は守られ、男は守られ、そしてすべては守られた。

 男は従弟の王によく尽くした。
 王は男を父のように慕い、重用した。
 女は言葉通り、男に会うことなく、数年のうちに流行病で命を落とした。
 その間、義理の甥に送った手紙は、事務的な内容のものを除けばほんの数通に過ぎなかった。
 真情を吐露するものはその中にすらなく、時候の挨拶程度の親しさに留まっている。









                                            (了)





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