緋の雪








 少年は領主の息子だった。兄弟はおらず、上に二人、下に一人の姉妹がいた。
 父親は少年をかわいがった。少年は父の要求を良く察し良く動いたので、領主はなおさら彼を愛した。少年は父に従う以外は我侭に育ち、姉妹達を見下して遊び相手にはしなかった。
 領主には妻はいなかった。少年が母と呼んだ人は三人いたが、三人とも屋敷から去った。一人は生きてその足で、二人は死んで棺に入れられて。
 ある冬の初めの寒い日、屋敷に新しい侍女が来た。
 婚約者が戦争で死んだので、住んでいた町を引き払い、田舎の近くで働き口を探していた娘とのことだった。美しくもなく賢くもなく、従順で、出しゃばりすぎず、故に少年の父はその娘を雇った。
 しかし少年は、その娘を見るつど苛立った。
 少年は娘に対し辛く当たった。父に禁じられていた麻薬を飲みたいなどと無理を言って困らせ、襟首に虫の蛹を入れたり、突き飛ばしたり、髪を引っ張ったりといった悪戯をして嘆かせた。屋敷の主たる父に、もっともらしい讒言を吐いたりもした。そのつど娘は、さして美しくもない顔を困惑に濁らせ、黙って溜息をつくのだった。その顔を見るときだけ、少年は満足した。
 少年の父親は、息子の讒言をたびたび聞かされたが、娘を里に返しはしなかった。その代わり、娘を息子付きの侍女にした。少年の鬱憤が彼女によって晴らされていることを、父親はよく知っていた。かつて幼かった頃、己も通った道だったからだ。
 少年の悪ふざけは日を追って激しくなっていった。
 だが娘は父親にも少年にも周囲の侍女達にも文句を言わず、黙って少年に従った。
 雪が降りしきるある日、霜凍るガラス張りの温室の中に、少年は侍女を連れて忍び入った。
 温室の中も冬だった。寒さに弱い花木が、身を竦めて春の到来を待ちわびている。
「ここは今はこんなだけど」
 少年は白い息を吐きながら、両手を広げて見せた。
「春になったら、おまえなんかが想像もつかないような楽園になるんだ。花のひとつひとつが、おまえのしょぼくれた顔よりよっぽどきれいな花園に」
 そう云って少年は侍女の反応を伺った。
 寒さからか、それとも傷ついたのかは知れぬ。侍女は固い笑みを向けた。
「それは楽しみですね」
 それきり黙っている。少年は苛立った。
「おまえが春までこの家にいられるとは限んないぞ。僕がお父さまに云っておまえを追い出すかも知れないんだからな」
 侍女は押し黙ったままだ。だがその鳶色の瞳に、危惧と呼ぶにはあまりにも痛々しいものが走った。
 それを見た少年の心がきりりと痛んだ。
 少年には推し量る術もないことだったが、屋敷を出て里に帰っても、娘には行き場などどこにもなかったのだった。
「おまえがうまくやってれば、そんなことにはならないさ。おまえが春までいたら、僕が育てた蘭を見せてやる」
 ぶっきらぼうな少年の言葉に、侍女が安堵したように頷いた。防寒服をたくさん着込んだ少年と違い、汚れた薄着の中に精一杯首をすくめながら、娘は寒さに堪えている。
「手を出せ」
 少年の言葉に怪訝そうな顔をしながら、侍女は常のようにそれに従った。
 侍女の手はあかぎれとしもやけで荒れ爛れていた。真っ赤になった指先が震えている。
 黒ずんだごわごわの袖から覗く手首だけが、細くしなやかで美しかった。
 少年は手袋を嵌めた手で軒から下がる氷柱を折り取り、娘の手の上に無造作に乗せた。
 痛いほどの冷たさに、娘の口から喘ぎが漏れる。その顔を見上げる少年の目は、冷静で残酷だった。
「屋敷まで帰るぞ。おまえはその氷を手で家まで持って帰れ」
「でも、坊ちゃん」
「ちゃんと手に持つんだぞ。スカートの上やなんかは駄目だ」
 そのまま少年は背を向けて、家への道を辿り出した。愚鈍な娘が従順に自分の命令に従うことを少年は知っていた。
 娘は言われたとおりに、氷柱を両手に捧げ持って少年の後をついて歩いた。少年はわざと遠回りをして屋敷に向かい、氷塊を素手で持つ娘の手の色は赤から紫に変じていった。あかぎれから血が滴って、二人の通った後に点々とこぼれた。
 娘の両手は凍傷を起こし、それから暫くは使い物にならなくなった。

 三日後の朝、久しぶりに雪雲が切れた。
 少年は馬小屋から自分の仔馬を出して跨り、侍女を連れて平原へ向かった。
 辺りは一面の純白だった。馬の足跡と侍女の靴跡が、処女雪の広野にどこまでも続く。
 やがて陽は翳り、空は再び雲で暗くなった。
「危険です。帰りましょう、坊ちゃん」
 侍女の声が背後から響いた。少年は馬を止め、馬首を翻して侍女に近寄った。
 侍女は以前と同じく薄着で震えていた。穴が開いて薄汚れたブーツと、手にぐるぐる巻かれた包帯だけが、三日前の様子と違っていた。包帯は石炭の煤で汚れていた。包帯に覆われて、娘の手首は見えない。
 少年は馬にたたらを踏ませ、白い息を吐く。
「馬に乗せてやろうか」
 ある緊張のうちに、少年はその言葉を発した。
 だが侍女はさっと顔を赤らめて後退った。
「と、とんでもございません!坊ちゃんの馬にごいっしょさせていただくなんて、とても‥‥」
 その表情は恐怖に近かった。少年の心は、冷たい氷柱に触れたときの手のように熱く痺れた。
 少年は娘の手首を忘れた。
「靴を脱げ」
 横柄に、有無を云わせぬ響きで少年は命じた。侍女が不安と困惑を同時に面に上せて騎上の少年を見上げる。
「靴を脱げと云ったんだ!」
 少年は馬に当てるための鞭を、侍女に向けて振り下ろした。鞭は音高く鳴って、侍女の口から鋭い悲鳴が上がった。
 云うことを聞かせるために、少年は幾度か鞭で娘を打った。娘は悲鳴を上げ、すすり泣き、懇願し、ついに靴を脱いだ。靴の中から娘の素足が現れ、娘は寒さと屈辱に震えながら裸足で雪の中に立った。
 少年は馬から飛び降り、娘のぼろ靴を拾い上げた。そして素早く馬の背に戻る。
「僕は屋敷に帰る。おまえは後からついてこい」
 それだけを云うと、馬の尻に鞭を当て、後ろも見ずに走り去った。途方にくれた娘の顔にはわざと目を向けずに。
 馬を走らせる少年の頬に雪が当たり、風が吹きつけた。
 少年はいっさんに平原を駆け抜けた。
 少年が屋敷の玄関に辿り着く頃には、吹雪が始まっていた。

 吹雪は幾日も続き、侍女は屋敷に戻っては来なかった。
 ある日、晴れ間を見て使用人たちが娘を捜しに出かけた。日が暮れる頃、彼らは娘を発見した。凍った人形と化した娘を毛布で包んで、人々は屋敷に運んだ。

 簡易な葬式の後、娘の遺骸は故郷の村の墓地へ葬られた。
 少年の父は少年を杖で打った。少年は泣きながらその罰を受けた。父親は打った息子を冬中部屋に閉じ込め、侍女の親が暮らす里の家には金貨の袋を寄越した。親は騒がず、黙って金貨を受け取った。領主はそれで侍女のことを忘れたが、少年は忘れなかった。部屋に追いやられたことは少年にはむしろ都合がよかった。雪が降る晩、少年はたびたび夜具に潜り込んで、誰にも見られない場所で涙を流した。
 あの娘の死が父の打擲などでは償い切れぬとわかっていた。
 自分が為したことの罪の重さではなく、喪ったものの大きさにおののいて、少年は泣いた。
 娘のしなやかな手首を思い出して泣いた。
 見せるはずだった温室の花を思って泣いた。
 侍女を鞭で打ったこと、理不尽な意地悪をしたこと、そして最後まで彼女に素直になれなかったことを思って泣いた。
 少年は自分の気持ちを表す言葉をまだ知らなかった。
 ゆえにただひたすら泣いて、そうして冬を過ごした。

 春が近くなる頃から少年は温室に籠もり出し、蘭の育成に精を傾けた。春が深くなって、そのうちの一本に、それは見事な花が開いたが、少年は黙ってその花を手折り、いずこかへ持ち去った。

 少年は成長し、学を受け、恋を知り、父を送り、そして屋敷の主となった。
 新しい領主は使用人や己の妻に優しく接した。いい主人でいること、いい夫でいること、いい父親であることを自らに課しているかのようだった。温室で蘭の花を育てるのを唯一の趣味とし、温室で咲かせた見事な花々で毎年花束を作り、里のはずれの墓地の一角へ届けさせた。
 領主はそれを、自分で贖罪と呼んだ。
 そしてその理由を、誰にも告げなかった。









                                            (了)





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