神隠し








 柔らかな赤毛が揺れる。
 椎の木の林で、不器用な手つきで花を摘む少女の姿があった。
 木立の影から、悪魔がそれを見ていた。
 少女の歳は十かそれ以上か。未だ初潮を迎えていない幼い肢体はどこまでも華奢で、色は透き通るように白く、瞳はヒヤシンスの花のような青だった。
「だれ?」
 悪魔の気配に気づいたか、少女が振り返った。
 悪魔はゆっくり闇より滑り出し、その醜い姿を陽にさらした。
「お母さま?」
「いや」
「お父さま?」
「いや」
「じいや?」
「いや」
 悪魔は気づいた。少女の瞳は青く透き通っているが、世界をその目に映してはいないことに。 少女は盲目だった。
「ではあなたはだあれ?」
 悪魔は答えなかった。真実を告げれば少女が怯える、そのことを怖れたのだった。
「花を摘んでいるのか」
「ええ。おばあちゃまにあげるの」
 少女の祖母を、悪魔はよく知っていた。
「おまえの祖母はもう死んでいる」
「知ってるわ。でもお父さまが言ったの。私はおばあちゃまのもとに行くんだよって。お父さまとお母さまとはもう一緒に暮らせないから、おばあちゃまに預けられるんだって」
 少女の言葉は歳よりも幼く、頼りなく耳を打った。
「ではおまえは私のものになるのだな」
 悪魔は言った。意地の悪い喜びを覚えながら。
 少女は首を傾げた。
「あなたはだあれ?」
「私は悪魔だよ。夜の森の狼、闇の中の神とも呼ばれる。死者を支配する者だ。おまえの祖母のような」
「おばあちゃまは元気にしてらっしゃる?」
 その邪気のない声が、悪魔の毒気を抜いた。
「死ぬことの意味がわかっているのか?」
 少女は首を縦に振った。
「痛みもなく苦しみもないことだって。わたしはこれ以上大きくならないし、おばあちゃまも歳を取らない。だけどいいこともあるって。おなかが空いたり寒さを感じたりしなくなるって。それに耳の聞こえない人は聞くことができて、目の見えない人も見えるようになるって」
 言いながら少女は両手を目の前にかざした。それが目に見えるようになったときのことを考えるかのように。摘んだばかりの花が二本、少女の手から落ちた。 悪魔はその花を、少女の足下から拾いあげた。
「おまえの父母はおまえに嘘を教えたな」
 小さな手に、花を再び握らせてやる。
「嘘?どんな?」
 一心に尋ねる少女は痛いほど無垢で、強かった。
 悪魔は心を決めた。
「目は見えるようにはならぬ」
「そうなの?」
 がっかりした少女に悪魔は触れた。その怪力が許すかぎりの優しさで、ゆっくりと少女を抱き上げた。
「それにおまえは歳はとってゆく。だが空腹や寒さは、これ以上感じることはあるまい」
「あなたの手、すごくごつごつして、毛むくじゃらなのね」
 少女は笑った。何の屈託もなく。
 それは悪魔の心を和ませた。

 悪魔は少女を攫って椎林から姿を消した。
 以後再び、悪魔と少女が現れることはなかった。









                                            (了)





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