孤独の塔








 その赤子を、老魔道師は葉菜畑で見つけた。
 産むには産んだが、育てきれなくてこっそり捨てたのだろう。産まれてからまだ三月も経っていないと思われた。赤子はもう長い間放置されたらしく、声を上げる力もなく、簡素な襁褓にくるまれて、ただそこに横たわっていた。
 無視をすることもできた。魔道師は赤子など好きではない。放っておけば、勝手に野垂れ死ぬか、犬にでも食われるか、あるいは飢饉続きで人肉食に慣れた連中が誂え向きの材料として調理するかするだろう。魔道師はそのまま通り過ぎるつもりで赤子を見下ろし、それが美しい子であることを知った。
 魔道師は結局、その赤子を己の塔に連れ帰った。自分よりはるかに年下だが十分に老齢といえる侍女に命じて山羊の乳を飲ませ、下の世話をさせた。女の子であった赤子は大きな病気一つせずに丈夫に育ち、その子が八つになり、多少の分別がつくようになった頃、老魔道師は己の仕事の合間を縫って、その子に魔道の手ほどきを始めた。魔道師は娘を小鳥と呼んだ。
 少女は驚くほど飲み込みがよかった。身体の成長と共に魔道の心得も著しく吸収し、しだいに魔道師は、占いや呪いを娘に任せるようになっていった。だが魔道師が娘に任せたのは呪法だけではなかった。彼は心をも預け、娘を己の心の内に取り込んだ。
 何より老魔道師にとって、このように全幅の信頼を寄せる者の存在は、彼の長い長い人生で初めてのことだったのである。
 平穏な日々は、永遠には続かなかった。
 ある朝、夜明け前にいつものごとく起き出した老魔道師は、一日の準備を手伝う娘の表情がいつもと変わったのに気がついた。頬と唇は艶を帯び、目はあでやかに輝いていた。魔道師は、娘が恋をしたことを知った。塔の上からしじゅう下界を見下ろしていた好奇心ゆたかな娘が、ついに己にふさわしい若い男を見つけたことを。
 娘は老魔道師にそれを告げなかった。その理由は魔道師自身にも漠然と理解できた。娘にとって魔道師は師である以上に父である。
 魔道師はいつしか娘に惹かれていた。庇護者たる父としてではなく、男として。
 だから魔道師は娘を塔の外に出さなかった。いつか娘が男女の仲を知り、己と結ばれることに納得するまでは、外界の知識を与えぬつもりであったのである。だが娘は巧まずしてその計画を打ち壊し、もっとふさわしい若い男に目を付けた。
 老魔道師の心には言いようのない嫉妬が燃え広がった。今となってはもう永遠に、恋人としての娘を手に入れられないことはわかっていた。娘は首を縦に振るかも知れない、だが真実老魔道師に心酔し、心身共に妻として懐くことはあるまい。娘にとって魔道師は歳を取りすぎており、今では娘はそのことを知っているのだ。
 老魔道師は鷹のように鋭い目で、それ以上のことも見抜いていた。娘の相手は身分はあるが腰の軽い若い王で、ほんの気まぐれに塔の中の美女に声をかけたのだ。真面目に応えた娘は暫くは王に可愛がられるだろう、だがやがて王に飽きられ、捨てられることになるのは目に見えていた。
 ある朝、娘が老魔道師に言った。自分は愛する相手ができたのでこの塔を出てその者と暮らしたいと。魔道師は反対しなかった。反対したところで娘が行動を曲げないことがわかっていたからだ。魔道師は承諾し、娘に別れの酒を飲ませた。魔道師の呪文が込められた、秘術の酒だった。
 飲み下す娘の白い喉を見つめながら、魔道師は右手を丸く握った。自分が小さな鳥を掴み、その首を片手でねじ切ろうとしている様を想像する。娘が杯を取り落とし、首元を押さえながら床を這った。苦悶にのたうちながら、驚愕の表情で魔道師を見上げる。
 魔道師はさらに右手に力を込めようとした。
 娘を見つめて、歯を食いしばりながら。
 娘の右目から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
 魔道師はそれを目で追い、娘と過ごした歳月のすべてを脳裏に思い巡らした。
 明るく笑う小さな娘。よく泣き、よく怒り、魔道師と侍女とをときにきりきり舞いさせた娘。小鳥と呼び、幼い命を救い、魔術を与え、手の中で大事に慈しんできた娘ーーーーー。
 魔道師の手が、力無く下ろされた。
 娘は立ち上がり、咳き込み、泣きながら、老魔道師に赦しを乞うた。彼を捨て、外へ出ていく赦しを。
 手の中から飛び立ち、もう二度とは戻らぬ小鳥。
 娘のいなくなった塔で、老魔道師は泣き出した。
 両手で顔を覆い、くぐもった嗚咽を時折漏らしながら。
 魔道師は酒を使って娘に術をかけた。
 世間の荒波に揉まれることなく、平穏に暮らしていけるようにと。
 魔道師はそうやって、いつまでも立ちつくしていた。
 年老いた頬に涙の筋をいくつも作りながら。









                                            (了)





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