恋一輪








 まだ少女と呼ぶような年の頃、ある娘の恋は始まった。
 見も知らぬ男から侍女を通して託された、一輪の花がそのきっかけだった。
 四季の折、さまざまな花がそれぞれ一輪ずつ、娘のもとへ届けられた。男はやがて娘とその父母の前に姿を現した。男は若い王子の妻の兄に当たる近臣で、名の知れた騎士だった。
 縁談はまとまり、娘は男のもとへ嫁いだ。
 夫の縁戚である王子は遠征に明け暮れていた。そして夫は常に王子に従って家を空けていた。娘は夫のいない家を取り仕切り、夫の帰りを祈って針仕事をしながら彼を待った。夫は帰宅の際、いつも彼女に一輪の花を携えて帰ってきた。花の咲かぬ雪の日の帰還にも、しなびた冬花をつけた枝を妻に手渡した。そうして妻に手渡された花や枝の幾つかは根を伸ばし、館の庭に少しずつ増えていった。
 そのようにして数年は過ぎた。
 やがて宮廷で政争が起こり、王子は反逆者の汚名を着せられて、処刑を避けるため辺境の地へ逃れた。夫も王子に従った。妻子は逃亡の邪魔になるとして連れて行かなかった。去り際、夫は妻に告げた。
「そなたを離縁する。だがこの館はそなたの娘への相続として残しておく。私の罪を被ることなく、他の男と縁を結ぶがいい」
 妻は黙ってうつむき、唇を噛んだ。
 その腕には夫との間に生まれた娘が、何も知らずにあどけない顔で眠っていた。

 妻だった女は新しい夫を持つことなく、同じ館に住み続けた。前と同じように家を取り仕切り、育ち行く娘を守りながら、庭に咲く花々を愛でた。政争で敵の側についた女の一族は、あからさまに女を遠ざけるようになっていた。女はそれに何の不平も漏らすことなく、ただ次第に病に弱り、ある年の夏の終わりに、娘に看取られて息絶えた。
 娘には荒廃した館と愛情を込めて育てられた庭と、そして母親譲りの美貌だけが遺された。

 ある春の日、娘が住む館の門扉を叩く者があった。
 館に済むただ一人の年老いた使用人が、客に対応するため外へ出た。
 そこには見知らぬ若い騎士が、人目を忍ぶように立っていた。
「我が伯父の遺言で参りました。ここの女主に花を献上するようにと」
 若者の手には、辺地にのみ咲く薄紫色の花が一輪だけ揺れていた。
 門のうちから、年若い娘が現れた。
「今の女主は私です。その花を得るにふさわしい者は、既に死にました」
 娘は母の恋物語を聞き知っていた。
 彼女の目の前に立った若い騎士は、長い眠りから覚めたような顔で娘を見た。
「では貴女は私の従妹に当たるのですね」
 騎士は国を追われた王子の息子だった。
 そして騎士は従妹に対するとは違う目で娘を見つめた。
 娘は騎士の視線の意味を計りかね、困惑したように首を傾げた。その仕草はかつて夫を出迎えた娘の母にそっくりであったが、それを知る者は誰もいなかった。
 娘の父は主君共々隣国で客分として迎えられ、その地で将軍として生を終えた、と騎士は告げた。
「私の父も先日死んだのです。故国に帰ることを志していましたが、ついに果たせぬままでした」
 娘のまなざしが、騎士の視線とぶつかった。
 一輪の花を挟んで二人は対峙した。
 やがて娘が云った。
「あなたは故国へ戻られることを望んでおいでですの?」
 騎士は微笑んだ。
「いいえ。私の居るべき場所は、もうこの国ではありません」
 そして騎士は娘の手に花を握らせて、その甲に口づけた。
「一夜の宿を、お貸しいただけますか」
 慇懃な声と娘を見つめる瞳は、あきらかに熱を帯びていた。
 娘は頬を紅潮させ、ゆっくりとうなずいた。

 翌朝。
 館に残っていた最後の使用人が、暇を出されて家路に着いた。
 崩れかかった門の中から、若い恋人たちが旅装で現れた。娘の胸には、騎士が携えてきた一輪の花が飾られていた。
 やがて二人は騎士の馬に乗って館を後にした。
 誰もいなくなった庭で、古い恋の証である花々がただ風に揺れていた。









                                            (了)





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