黒狼








 領主は狩りを好んだ。
 或る初冬、常の如く屋敷の裏手の狩猟場の森に出かけ、黒い狼を見つけた。初雪のもたらした銀世界の中で、その色はよく映えた。大きな狼で毛艶は申し分なく、領主は銃を構えて狙い撃った。
 弾は逸れ、狼は逃げた。領主は馬を駆ってそれを追い、従者達や猟犬といつのまにかはぐれてしまった。狼を追ううちに馬が何かに足を引っかけ、領主は地に投げ出されて暫く気を失った。
 意識を取り戻したときには日は陰り、雪が降り始めていた。領主は立ち上がれなかった。手を突いて座ることさえできなかった。領主は恐怖し、声を限りに助けを求めた。
 誰も答えなかった。
 やがて雪は音を飲み込むほどに重く降り出した。領主の意識は朦朧とし、恐怖は諦観にとって変わった。
 雪を踏みしめる音がする。首を振り向けると、黄昏の中に黒い影が浮かび上がっていた。
「助けてくれ」
 領主は震える唇でそう云って、気を失った。

 目が覚めると、そこは小ぢんまりとした農家だった。暖炉の傍に寝かされて、粗末な寝具や布をありったけかぶせられていた。首を巡らすと、黒い髪の娘がじっと領主を見守っていた。
「おまえが私の恩人か」
 語りかけると、娘の薄い唇が硬い笑みをはいた。
「あなたが助けてくれと云ったから」
 その言葉は生硬で、外国の者が話す言葉のように聞こえた。黒い艶やかな髪は、この辺りでは珍しい。領主は起き上がり、娘に向かって手を伸ばした。体はかなり恢復していた。
「おまえは国の者ではないな」
「母と共にここへ来たの。今は私一人よ」
「天涯孤独か」
「そうよ」
 領主の伸ばした手に、娘は応えた。
 領主は娘を抱いた。
 翌朝、娘は家の外に出て、領主を振り落とした馬を引いて帰ってきた。
 領主はその馬に乗って、娘と共に館へ帰った。
 領主はその娘を妻に迎えた。

 冬が終わる頃、領主の妻は不調を訴え、床から出なくなった。
 それまでは言葉は少ないながら、甲斐甲斐しく働くよい娘だった。領主は心配して医師に見せたがったが、妻は拒んだ。
 領主は妻を愛していた。ゆえに妻に無理強いして医師に見せた。医師は別室に領主を呼んで、娘が身ごもっていると告げた。医師が去った後、領主は嬉々として妻にその事実を伝えたが、妻は哀しそうに黙り込んだだけだった。
 領主の心に猜疑の針が突き立った。妻の腹には別の男の子供がいるのではないかと疑った。聞くと、妻はそれだけはないと言い張り、しかし顔の翳りは晴れぬままだった。夜にそれとなく見張らせても、妻には密通の気配さえなかった。
 やがて膨らんでいた妻の腹は平らになった。
 領主は驚いた。妻は子が流れたと領主に告げた。
 領主自身を母の股から取り上げたこともある、産婆を兼ねる老侍女は領主の問いにきっぱりと答えた。
 流産の兆しを、妻のいかなる様子からも見つけることができなかったと。

 領主は妻の謎を不安に思ったが、しかしそれで彼女を手放すことはしなかった。二人は以前と変わらず枕を並べて共に眠った。
 或る夜半に目覚めると、傍らに妻の姿がなかった。妻が寝ているはずの寝台のその場所は冷え切っていた。領主は驚いて部屋を探し、屋敷中を探した。明け方近くに妻はようやく姿を見せた。領主は妻を怒鳴りつけ、どこにいたかを問いただした。
 妻は散歩に行っていたと答えた。目は哀しげに伏せられていた。
 領主はその言葉が嘘であると確信した。
 次の夜、領主は眠った振りをして妻を見張った。深夜に妻は寝台から抜け出し、裸足のまま部屋を出た。
 領主は銃を抱えて後を追った。怒りと悲しみと嫉妬が領主を支配していた。自分を笑い者にして愛する男のもとへ会いに行っていると、もはやそのことを疑わなかった。
 妻の足取りは狩猟場へと続いていた。春の月は煌々と明るく、見失うことはない筈だった。だが領主は見失った。怒りにかられ、不安に苛まれ、がむしゃらに藪の中を突き進むうち、何かの声を聞いたように思った。
 領主はそちらへ足を向けた。
 複数のものの呼び合うような声が、丘のふもとから聞こえていた。領主は銃を構えた。目に入るものが妻であれ男であれ何であれ、撃ち殺してやるつもりだった。夜の中で動くものに目を止めて狙いを定めた。
 それは冬に見た狼だった。領主に背を向けており、こちらに気づいてはいなかった。黒い艶やかな毛が月光を反射していた。
 狼が振り向いた。黄色い目が哀しげに領主を射た。領主は引き金を引いた。
 今度は狙いは逸れなかった。
 狼が倒れた場所へ領主は歩いた。だがそこには狼の姿はなく、かわりに妻の姿があった。
 妻は仰向けに倒れたまま領主を見上げた。
「この先にあなたの子がいる。お願い、私のように殺さないで」
 そして息絶えた。
 月光を反射する妻の目から涙が一粒零れ落ちた。
 領主は茫然とそれを見下ろした。
 領主が立つ場所にほど近い丘のふもとから、赤子の泣くような声がした。草をかき分けて声を辿ると、二匹の狼の仔が声を上げていた。
 領主が抱き上げてみると、どちらも人間の赤子に変わり、人間の赤子のように泣いた。
 二つの泣く声に、もう一つの声が唱和した。
 ほんの少し離れた場所に、黒い大きな雌狼の死体が横たわっていた。









                                            (了)





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