魔女の棲む谷








 人々の願い事がまだ叶った頃。
 山並みの奥深くにひっそりと暮らす魔女があった。
 腰の曲がった醜い老婆で、気むずかしく、近隣の村人からは怖れられていた。
 薬草を煎じ、人々にはわからぬ言葉をときに用い、呪文をもって病や怪我をよく治した。
 右と左で瞳の色が違う若い娘を助手に雇い、夜遅くこっそりと訪ねてくる里の者に、代価を得て治療を施していた。

 ある早い夏の夜、若い母親が半狂乱になって魔女のもとを訪れた。一人娘が高熱を出し、全身に痣が出て腫れ上がり、医師にも僧にも見放されたということだった。
 老婆は黙って母親の訴えを聞いた。顔に残る痘痕は老婆が数十年前の流行病を生き延びたことを物語っており、それこそが命と引き替えに魂を悪魔に売った魔女の証と里では噂されていた。
 そしてその老婆の後ろには、黄色い右目と水色の左目を持つ娘が黙って控えていた。松明の明かりにほの暗く照らし出されるその光景は、取り乱した母親の目にも不気味と見えた。
「おまえの娘は死ぬよ」
 話を一通り聞いた後、魔女は冷たく言い放った。
 母親は両手を振り絞って老婆に懇願した。自分の娘を何とかして助けてくれと。
「なんでもするのかね」
 老婆の小馬鹿にしたような問いに、母親は懸命に頷いた。
 老婆は助手の娘に命じて薬草を取ってこさせた。干し、擂り潰して粉末になった薬を幾つか袋に詰めて、母親に示した。
 手を伸ばしてそれを受け取ろうとする母親を、老婆は遮った。
「薬代として、お金のほかに次のことをして貰うよ。私があんたの助けを必要としたときに、必ず私を助けると誓いな」
 母親は吟味する間もなく頷いて、ひったくるように薬を受け取った。
「よく効くけど、強い薬だからね。飲ませると幻覚を見るし、飲ませすぎると熱にやられる前に死ぬよ。分量をよくお守り」
 老婆の声を背に、母親は薬を胸に抱いて山を降りていった。
 遠ざかる人影を見下ろしながら、老婆は助手に云った。
「みててごらん。私はあの女にまじないをかけた。あの女が約束を破ったら、私と同じ目にあうんだよ」
 助手の娘は首を傾げて尋ねた。
「あの母親は人は良さそうでしたが。それでもやっぱり約束を破るのでしょうか」
 老婆は助手を見た。嘲るような笑みが顔の皺をいっそう深く暗くした。
「人の良い人間は弱いんだよ。覚えておきな。おまえがいっぱしの呪術師になる為に必要なことを、私とあの女が教えてやれるだろうよ」
 言い捨てるようにして、老婆は小屋の奥に引っ込んだ。



                   *


 それから数年の後。
 飢饉とともに流行り病が周囲の村々を襲った。
 どこからともなく噂が立った。
 これはある女の呪いだと。
 そして呪っているのは、かつてある村を追われた女、今は谷間で人々に怪しげな薬を売って暮らす魔女だと。
 証言はいくつも出てきた。貰った薬で恐ろしい幻覚を見た。貰った薬をやった子供が死んだ。火にかけた大鍋に死んだ人間の臓物を入れて掻き回しているのを見た。
 魔女は捕らえられ、村の者たちの審議にかけられた。
 村人は魔女の助手であった若い娘も同時に追った。だが娘は山深い谷のいずこへかと逃げ去った後で、誰にも行方がわからなかった。

 三日ほどで、老婆の処刑が確定した。
 老婆は忌むべき大罪人で、しかもそれを自分で最後まで認めなかった。悔い改める機会は幾度もあったのに、最後までそれを拒んだ。
 審問官が朝、高らかに老婆の罪状を読み上げた村の広場には、昼のうちに火刑台が整えられた。
 夕刻、老婆が村の屈強な若者たちに両腕を捕らえられつつ姿を現した。
 拷問の痕も生々しく、顔は腫れ上がり、爪ははがれ、両腕は奇妙な形にねじまがっていた。片目もえぐり取られており、自分で歩くこともできず、村人たちに半ば支えられ、半ば引きずられつつ火刑台へと連れて行かれた。
 よその村からも多くの人々が集まって、老婆に向かって石を投げた。数多く在る人々の中でただ一人、老婆がある女に目を止めた。
 数年前に老婆のもとに薬を求めてやってきた女だった。
 老婆はもはや片方しかなくなった目で女を睨め上げた。
「これが最後の機会だよ」
 歯を抜かれた口が不明瞭な言葉を吐いた、だが女にだけはその意味が分かった。
 老婆が捕らえられてから三日、薬の代償に老婆を助けると約束した女は、しかし一度たりとも牢屋に近づかなかった。審問官にも証言しなかった。老婆と関わったことを徹底的に秘密にし、助けてもらったことなどないという顔をして暮らしてきた。老婆との約束を果たすなら、老婆が処刑される今、声を上げるしかない。
 だが老婆に有利な証言をすれば、それだけで魔女の一味と見なされるに違いなかった。
 女はがたがたと震えながら老婆を見つめた。硬く絞られた右手は、小さな娘の左手に繋がっていた。
 娘の首と額には大きな痣が残っていた。いつぞやの熱病の置き土産だった。
 やがて女の口が小さく動いた。老婆は待った。だがついに、そこから言葉は発せられぬままだった。
 老婆の口が笑う形に歪んだ。切れた唇から再び血が滲み出た。蔑みの混じった光で女を一瞥し、それきりがっくりと首を落とした。
 老婆を掴んだ村の若者たちは女の前を過ぎ去り、老婆を火刑台にくくりつけた。
 そのとき彼らは、老婆の口中での呟きをわずかに耳にした。
 老婆は神を讃え昇天を願う言葉ではなく、何者かを呪う怪しげな呪文を唱えていたと、のちに彼らは証言した。
 審問官の断罪の言葉と司祭の神への祈りの言葉の後、火は放たれた。夜の広場には生き物の焦げる臭いが満ち、風に乗って流れていった。
 やがて老婆の遺骸が枯れ木のように崩れ落ち、火が燃え尽きると、人々は三々五々、家路を辿っていった。
 その中に一人の娘の姿があった。
 頭まですっぽりと被った大きなマントの下から、黄色と水色の色違いの瞳が涙に濡れて光った。
 娘は滑るように歩いて夜の闇に姿を消した。


 老婆の骸がこなごなに打ち砕かれ、墓地に撒かれた後も、飢饉と病の猛威はいっこうにおさまらなかった。数年の間に幾度か魔女狩りが行われ、多くの女と少しの男が火刑台に上がった。
 魔女の疑いをかけられて死んだ中には、老婆に薬を求めに行ったあの女も混じっていた。老婆から薬を得たことを、夫の口から暴露されたのだ。女は火刑台に昇るまで、自分がどこにいるかついに理解しないままだった。いかなる尋問や拷問に対しても意味のない言葉しか吐けず、魚のように口をぱくぱくとさせて、怯えた目で周囲を見回すだけだった。
 そのような状態で柱に縛り付けられた女が、次第に火で煽られて絶叫を上げつつ死んでいく様を、女と共に暮らした夫や近隣の農夫たちが目も逸らさず見守っていた。その目に罪悪感は一切無く、ただ、邪悪な魔女への嫌悪と、これで魔女の呪いから解放されるという安堵だけがその面に浮かんでいた。



                     *


 やがて飢饉は収まり、流行病は終息した。
 村は平穏を取り戻し、そしてまたこっそりと、薬を求めて谷へ通うようになった。
 谷には新たな魔女がいた。黄色と水色の瞳を持つ年若い女だった。だがその女の目に宿る光は、歳よりもずっと老いて見えた。先代の魔女が持っていた厳しさと人間への猜疑心は、血の繋がらぬこの女にしっかりと継承されているようだった。
 ある朝、谷へ水を汲みに行こうと女が小屋の戸を開けて外に出ると、痩せこけた一人の少女が立っていた。
 丈の足りない襤褸服を纏い、裸足で、髪はもう幾月も切りも洗いもしておらず、くしゃくしゃだった。
 その少女の首と額には、かつて病を得たことを示す大きな痣があった。
「おいで」
 女に呼ばれて少女は女に近づいた。
 女は少女を伴って小屋に姿を消した。それきり少女が山を降りることはなかった。

 人々の願い事がまだ叶った頃。
 山並みの奥深くには、ひっそりと魔女が暮らしていた。









                                            (了)





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