冥王の娘








 冥府の王には一粒種の娘があった。
 丈高く肌はほの白く、蔦のように絡み合う黒髪と土の色の瞳を持つ娘だった。
 ある朝、太陽が未だ天空に昇りきらず、梢や繁みに闇を残す頃合い、冥府の娘は藪の影からひっそりと姿を現して、ひとりの男を見そめた。
 太陽そのもののようなあかがね色の髪と、皮膚の下に滾る赤い血を備えた、年若い王だった。娘は王の姿を暗がりから見つめ、抜けるように白い肌を心持ち染めながら父の国へ下った。
 娘の吐息の理由を、冥府の支配者はすぐに悟った。
「そなたは恋をしたな」
 娘は首をかしげ、無言で父を見た。
 まばたいた娘の目から、恋慕の涙が一粒転がり落ちた。それは血のように赤い紅玉に変じ、冥府の床にぶつかって高い音を立てた。
 娘はゆるゆると言葉を紡いだ。
「私は恋をいたしました。あかがね色の髪を持つ人間の王に」
 冥王は娘よりいっそう暗い土色の瞳を曇らせ、諭した。
「王と云えど人は人、そなたにふさわしい者ではない。人間は寿命は短く、体は脆く、ゆえに欲も深い。そなたは恋に重ねて嘆きを知ることになろう」
 娘は俯いてただ口を閉ざした。




 幾たびも血の雨を被った、山々に挟まれた平原の日の出前。
 勝ち目のない戦を目前に準備を整える王の目の前に、その娘は現れた。
 身に纏う衣装は豪奢だが古めかしかった。陰鬱な美貌と暗い情熱を身に宿したその娘は、自分なら貴方を助けてやれると王に告げた。
 王は笑って相手にしなかった。
 余裕を失った彼の目には、その娘は狂女としか映らなかったのだ。
 娘は王の居丈高な態度には臆せず、形よい唇から声を飛ばした。
「戦の前に、敵の陣に害を為して敵の戦意と勢力を弱めて差し上げます。貴方に命と勝利をもたらす為に」
 年若いと見えるその娘から発された言葉は重々しく響き、言霊は歳降りた呪術師の呪言のごとく、いつまでも周囲に漂った。

 娘は敵の陣に流れる泉の水に鉱毒を混ぜた。
 敵は将を始め皆腹痛に苦しみ、ある者は顔を引きつらせて死に、ある者は激しい嘔吐と排泄に見舞われた。王が率いる軍は病者の群と化した敵をたやすく破り、娘の言葉通り王は勝利した。
 戦の後で、王は先刻とは異なる目で娘を見た。
「そなたは神か、妖女か」
「私は土精の助けを得てはおりますが、貴方を慕うただの娘に過ぎませぬ」
 娘は王の前に目を伏せた。
「人ならざるものを我が館へ迎え入れるわけには行かぬ」
 王の言葉に、娘は黙って己の肩を抱いた。睫毛の縁からこぼれた水滴は足に滴って黄金のかけらに変じた。
 王はかがんでそれを拾い上げた。
「そなたの涙は黄金に変わるのか」
「紅玉にも碧玉にも変じます」
 娘は睫毛をしばたいた。言葉の通り、今度の涙は海よりも青い碧玉と化した。
「そなたを私の妻に迎えたら、そなたの愛は何に変わろう」
 王はゆっくりと、己のマントで娘の体を覆いながら尋ねた。
「如何様にも。貴方を護る鎧、貴方を勝利へ導く剣、貴方に富貴と強健をもたらすあらゆるものへ変じましょう」
 言葉を皆まで言わせず、王は娘の唇へ口づけた。
 娘の首筋から、甘やかな花実の香りが立ちのぼった。




 王は三たび戦に出てその都度勝った。三年の間畑は希にみる豊作で、対照的に他国では飢饉が続いた。王の国の盛強は諸国に鳴り響き、国民もまた充足のうちに日を過ごした。
 ある夏、王は四度目の戦に出て四度目の勝利を得、新たな領地とその長であった者の娘を我がものとして帰国した。
 連れてこられた娘は美しく、すぐに王の妾となった。
 王は妾妃の寝室に閉じこもり、滅多に妻のもとを訪れなかった。数ヶ月の後、久方ぶりに妻の部屋へ現れた王は、妻の様子に異変を感じ取った。
 陰鬱だが美しかった黒髪は、痩せ枯れた草原のように荒んでいた。ほの白かった肌は今や青ざめ、ほっそりしていた手は痩せこけていた。黒曜の瞳も赤く潤み、部屋の中には枯れ蔦が絡んで、ただ足元に、様々な種の宝石や金銀が無造作に散らばっていた。それが妻の涙の変じたものであると、すぐに王は気づいた。
 近侍の者たちに告げて王はその鉱石を拾い集め、美しく削り、磨き立てて妾妃に与えた。
 妻は何も云わず、ただ黙って夫の行為を眺めていた。
 豊作は続き、王は戦に勝ち続けた。
 妾妃の腹には双子の赤子が産まれた。一人は女の子、一人は男の子だった。王の寵愛はますます著しく、妻となった冥王の娘は省みられぬ日々を送った。

 冥王の娘は館の一室で嘆き暮らした。涙は宝石となって床に積もり、その一滴ごとに娘は痩せていった。
 冬のある朝。
 侍女が王妃の寝台の帳を開けるとそこに冥王の娘の体はなく、ただ娘の夜着と、金銀、宝石が幾ばくか寝台の上に転がっているだけだった。



 王の国に春が訪れぬ年が幾年も続いた。陽は当たらず、木々の芽は伸びず、長い長い旱魃の後に土砂降りの長雨が数ヶ月も続いた。穀物には悪い病が取りつき、穀倉の中にさえそれが蔓延した。
 人々の間にも疫病が流行した。貴人の中にも病に倒れる者は多く、ある年、妾妃も幼い赤子二人を残して病死した。嘆く間もなく王の元に国境が侵されたとの報せが入り、王は消沈した心を圧して出陣した。
 王の軍が用いた井戸の水には鉱毒が混ざっていた。
 王はなす術もなく、自らの布陣が瓦解していくのを見ていた。ほぼ全ての兵士が毒に中り、敵兵によって完膚無きまでに蹴散らされ無惨に殺されていった。
 王の脳裡に妻の顔がちらついた。土精の助けを得ていた異形の娘。敵兵に包囲され、体内の毒の痛みに体を二つに折りながら、王は消え失せた妻への怨嗟の言葉を吐いた。
「疎ましき邪神の眷属でありながら儂に言い寄り、よくも我が心を誑かし、我らの繁栄を妨げたな。許さぬ」
 風に乗って王の声に答えるものがあった。
「我が娘の愛に報いるそれがそなたの返答か!」
 怒りの響きと共に大地が裂け、王を呑み込んだ。
 王は二度と地上へは帰ってこなかった。

 敵軍に囲まれた王の城で、妾妃の腹になる幼い子供二人が貴金属や宝石を手に遊んでいた。
 その宝石群が王の妻の成れの果てであるとは、誰にも知られぬままだった。
 数日の後、城は敵兵によって破られ、城に拠っていた王の一族は殲滅された。
 主立った側近や王の親類縁者は皆城壁から首を吊され見せしめにされたが、そこには幼い双子の死骸はなかった。
 王の直系に当たるこの双子を敵の将は虱潰しに探したが、ついに髪の毛一本見つけることは出来なかった。
 故郷に戻った冥王の娘が憐れんでこの双子を助けたとも、逆に冥王の逆鱗に触れて父子共々生きながら地獄へ突き落とされたとも噂された。

 暗い冥府へと赴く者だけが、真実を知ることを許されている。










                                            (了)





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