濁る河 |
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河へと続く急峻な崖を背に、その城は在った。 領地とては猫の額ほどの耕地と、山の傾斜にへばりつくように散在するいくばくかの村落、それだけだった。 崖下を流れる川はやがて山を抜けて平野に注ぎ、豊かな穀倉地帯へと続く。 富める領主と台頭を狙う商人、立身を求める騎士達が争い合う世界とは切り離された貧しい世界に、その山間の国はあった。 王はまだ若かった。先代の王であった父の死後、国を継いで未だ五年に満たない。 王には妹がひとりいた。若く美しいというほかに取り柄を持たない、ゆえに平野の男達を釣るのに格好の娘が。 王は娘を城の外に出さず、籠の中の鳥のように大切にして育てた。
娘は若く美しく、幼くはあったがまたそれ故に一途であった。年降りた者が見れば、従順な素直さの奥に潜む情の強さに気がついたことであろう。だが兄王が支配する城は世代交代が進み、若い雰囲気に支配されていた。楽観的で希望に満ち、己の望むことはいずれ成就されると信じて疑わない明るい若者たち。もちろん王もまた、そうした若者の一人であった。 兄王の側近に、ある男がいた。戦強者の騎士で、身分はそう高くはないが、戦場での名声が家名を補って余りあった。兵の扱いもうまく、誰もが次代の将軍と認めていた。 その男が、王の妹に恋をした。 王が妹を政略に利用する腹づもりがあることを、男も娘自身も漠然と理解していた。だからといって恋が止まるわけではない。むしろその障害を感じ取ったことが、恋の炎をいっそう燃え上がらせる結果となった。希代の戦上手という評判が、男の傲岸さを増長してもいた。王が男に対し風当たりを強くしても、男は敢えてそれを無視した。それは王の嫉妬と不安を買った。妹を手に入れれば、己の名声を根拠に、現王より王位にふさわしいと主張することもできる。 王は不安を打破すべく手を打った。男は要職を奪われ、次の戦には指揮官としてではなく一騎士として出陣することを余儀なくされた。己の手腕に絶対の自信を持っていた男は憤慨し、戦が終わったら密かに王妹を盗み出し、この国を出奔してやろうと心に決めた。傷つけられた自尊心を癒す為には、王に対し腹いせを働く必要があったのだ。 男は王妹に会う手はずをつけた。
沢を流れる激流が耳を打つ。 城に仕掛けられた抜け道を下ると、崖下の川縁に出られるのだ。 闇が深々と周囲を覆う頃、男は娘を呼びだした。 心のどこかで、この方法は通らぬと告げている。男はその声を押しつぶした。本当は今すぐにも娘を攫って連れて行きたいところなのだが、戦の前ということで、敵方の偵察を防ぐため、常より警邏が厳しくなっている。戦の直後に娘を連れ去るつもりだった。 娘が岩に穿たれた石段を降りてくる。夜着が風に舞い、翻っていた。 男に気づき、恥ずかしげに微笑んだ。花のようなあでやかな匂いが男を刺激する。 男は腕を広げて、娘を抱きとめた。男の接吻に娘も答えた。娘にとって、自分が兄の計画から外れる為にこの男の存在が不可欠だ。国を出るという男の案に、娘は怯えはしたものの抵抗は示さなかった。お互いの意志は確認しあった。後に必要なのはその手形だけだ。 その夜、娘は初めて男に抱かれた。
男は戦から帰ってはこなかった。 今回の競争にも兄王が一歩先んじた。 流れ矢に当たり、川に転落して息絶えたという情報を携えて、使者が娘のもとを訪れた。遺骸は岸に上がらぬままに終わったと。 娘は気づかなかった。 兄王は真相を知っていた。流れ矢は体の前や横からではなく背中に十本以上突き立っていたこと、喉笛を掻き切り、身元が分からぬように衣服をすべて剥ぎ取ってから川に捨てられたことーーーー。詳細な報告を得て、初めて王は安堵した。あの男は本当に死んだのだ。 娘は人知れず涙に暮れた。 兄王は妹を責めず、平野の領主との婚礼準備を整えた。娘は正妻ではなく愛人の一人として、裕福な領主の館に迎え入れられる。山間の旨味の少ない領地の長と親戚になる長所は何もない。やってくる娘の若さと美貌だけが相手先の領主の関心事なのだ。兄王は結局妹を買い叩かれたことになる。王はそれを自覚していたが、もはや取り消すこともままならなかった。死んだ騎士との恋仲を暴かれたら、妹の価値がさらに下がってしまうことを兄王は知っていた。
その夜。 谷から上がる風が生温く城内を支配していた。 婚礼の支度を終え、閑散とした室内に娘は一人でいた。 明日はもう、馬車に乗って平野へと旅立つ。 窓から吹込む風に誘われるように、娘は窓際に立った。 遙か下方で水の音が聞こえる。窓の向こうは切り立った崖が川まで続いている。娘は下を覗き込み、闇の中の何かを探そうとするかのように目を凝らした。 娘の目が何かを捕らえた。 その白い面に、驚愕と喜びの表情が交錯する。 「あなた・・・・・・」 呟きとも知れぬ、言葉。 「帰っていらしたのね・・・・・・」 目尻から涙が滴った。唇が半月の形に歪む。 「待っていて。いま、すぐにまいります」 言うなり娘は、窓の向こうに身を乗り出した。
水差しを抱えて娘の部屋にやってきた侍女が、一部始終を見ていた。 娘の半身が窓の奥の闇に消え、ついで白い夜着と髪が翻りつつ視界から消えたのを。 侍女は恐怖に凍りついた。窓の下の切り立った崖の下に娘の死骸がある、そう思いこんだ。 金切り声を上げつつ王の居間に駆け込み、そのすべてを王に話した。 翌朝、王は崖下の流れを浚わせた。妹の遺骸は見つからなかった。幾日が経っても、髪の毛一本、帯一つさえ。王は怒って侍女を責めた。 「誓ってほんとうでございます」 侍女は強硬に譲らない。 「見ました!この目で見ました。姫さまが窓の向こうに落ちられていくところを!窓の外に身を乗り出して、あの方の名をお呼びになって、一体何をなさるのだろうとこちらが考えましたほんのちょっとの隙に、もうーーーー」 王の謀略を知っていた部下の一人が、こう意見した。 「あの男が生きているということは・・・・」 王は言下に否定した。 「ありえん。心の蔵が止まっているのを複数が確認したのだ。その上で首を掻き切り、川に沈めた」 王は娘を捜したが、娘はついに生きた姿も死んだ姿も発見されぬままだった。
翌年。 城内で疫病が流行し、王がかわいがっていた愛娘も命を失った。病を乗り越えた者も、言葉を失い足腰が弱ってろくに歩けぬという後遺症が残り、王の愛妾の幾人かがそんな体になって里へ帰された。 城内は笑顔が消え、重苦しい空気が立ちこめていた。 城に詰める者たちは、城の床が水浸しになっているのを屡々目にした。雨の翌日や嵐の日にではなく、一週間太陽が照り続けたようなときにさえ、その現象は現れた。 侍女の一人が、夜中、大きな水蛇が城内を這うのを見た。それが王族の寝室へと姿を消し、当夜、王の一人息子でもある王太子が高熱を出して死んだ。 城は次第に人少なになっていった。ある者は死に、ある者は暇を乞い、不思議と後任も見つからなかった。王は孤独に耐え、それでも家の盛強を目指していたが、その気概さえ次第に弱ってきているのは誰の目にも明らかだった。
ある夜、王は夢を見た。 河床から、巨大な水蛇が崖を這い登ってくる。鱗はぬらぬらと白く、図体は大きくとも動きは敏速である。 水蛇は城の窓に至り、そこから滑り込んだ。あたりを水浸しにしつつとぐろを巻く、と見る間に一人の女に変身した。 王はその部屋で、その場に立ってすべてを見ていた。白い夜着と長い髪から、絶えず水が滴る。女の容姿に見覚えがある気がして、王は立ちすくんだ。これは自分が知っている女だ。 女がゆっくりとこちらを向いた。ほの白い顔、白い睫毛の下から、強烈な憎しみを放つ緑の目が覗いている。口が半月の形にめくれ上がった。 王はその女が誰だったかを、ついに思い出した。
目覚めると、王の部屋はひんやりと湿っていた。気配を感じて寝具をはねのけて飛び起きると、そこに夢にあらわれた水蛇がいた。 水蛇の口から赤い舌がちろちろと覗く。その仕草に満足の意を汲み取って、王は震え上がった。 水蛇がゆっくりと、王に近づく。 王は為す術もないまま、水蛇に取り込まれた。
河へと続く急峻な崖の上に、その城はあった。 無人になって久しく、今は城壁がその形骸をかろうじてとどめているに過ぎない。
崖の下を流れる濁流は、今も昔も変わらず、豊かな平野へと続いている。
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(了) |
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