二枚の銀貨








「どうしても行くの?」
 妻の言葉は青年の心を揺さぶりはしたが、決心を変えるには至らなかった。
「わかってくれ」
 国境間近の小さな町に働き口は少ない。青年は首都に出て、国が募集する軍に入隊しようとしていた。
「五年勤め上げたら、帰ってこられる。短い時間じゃないけど、その間きみに送金できる」
 少し言い淀んで、
「僕の息子か娘の顔を五年も見られないのは残念だけど」
 妻の顔は柔らかくほどけたが、心配の念を払拭するには及ばなかった。
「きちんと産まれるかどうかわからないわよ。初産だし」
 妻の腹は軽く膨らんでいた。
「産まれるよ。娘だったら君に似て美人だし、息子だったら僕に似た美男子に決まってる」
 妻は笑い声をあげて青年に抱きついた。青年がお世辞にもハンサムと呼べないような面構えであることは、お互いによく承知していた。
 妻の笑声は途中から涙を含んだ。
「お願い、死なないで」
 耳元で囁かれる祈りを、青年は真摯に聞いた。
「誰を殺しても見捨ててもいいから、無事で帰ってきて」
 夫は妻を無言で抱きしめた。
 存在感を示す妻の腹から、青年は確かに新しい命の脈動を聞いたような気がした。

 十日の後、首都へと旅立つ青年を、妻と青年の妹とが町はずれの丘で見送った。妻が涙を流し、肩を妹に支えられるのを目に焼きつけ、青年は旅路に出た。

 青年は兵士になり、国の内外で戦った。
 内乱、紛争、戦争、住民の蜂起。
 故郷の町で人づてに噂として聞いたり、あるいは知りもしなかった数々の戦。
 週に一度、彼は手紙を妻に宛てて書き続けた。戦地から、救護所から、兵舎から。
 届いているかどうかは知らぬ。だが書き続けることが、彼を支えた。
 妻からの返事は五年間一度も来なかった。
 自分の故郷があらゆる戦の場所から遠く離れてあること。それを男は神に感謝した。妻の顔を思い、妹の顔を思い、息子か娘かわからぬまだ見ぬ自分の子の顔を想像して、男は必死に耐えた。


 五年はようように過ぎた。
 青年は三倍も早く歳を取った。窶れた顔と、引きずらねば歩けぬ右足、くたびれた銃剣と労苦に見合わぬ幾ばくかの金が故郷への土産だった。青年は辛抱強く首都から辺境の故郷へと馬車を乗り継ぎ、時には歩き、時には人々の親切を受けながら、山並みひとつを越えれば故郷の町がある領地というところまで辿り着いた。
 そしてそこで、国境付近が異国に侵略されていたことを初めて知った。

「軍隊がなんとか追い返した、と国では云うとるがね」
 煙草をのみながら宿の老爺が苦々しく言葉を吐いた。
「実際は傭兵の力を借りたのさ。奴らの入植を許す形でな。傭兵連中の大半は侵略者と同じ、粗野な色白の北方人だ。国の女は無理矢理奴らの妻になった。まぁ男連中は先に侵略者に殺されてたから、みんな寡婦ではあったんだが」
 故郷へ向かう男の顔は蒼白になった。
「それはいつのことだ」
「さぁて。三年か、四年前か。‥‥いや違うな、もっと前だよ。国境を侵されたのが五年前。傭兵たちが来て奴らを押し戻したのがその半年くらい後だな」
 老爺は男の顔を見て、
「あんた、本当に郷に戻る気かね?あそこはもう、異国人の土地だぞ」
 男は妻からの手紙が来ない理由を、ようやくに知らされたのだった。


 故郷の町は荒れ果てていた。
 果樹園は燃やされ、黒い柱となった木々が無惨に突っ立っている。家畜の毛艶は悪く、痩せこけ、畑で鍬を振るう人々はまばらで生気なく見えた。
 妻と共に立った町外れの丘のあたりは、以前はみごとな麦畑だったが、今年は種を捲かれた気配さえなかった。男は記憶を懐かしむように、今を悼むようにゆっくりと道を辿り、自らの家であった場所へやってきた。
 木造の家は梁が傾いていた。その前に、痩せて薄汚れた小さな女の子が生芋を囓りながら立っていて、見知らぬ人間が物珍しいのだろう、男をまじまじと見つめた。
「君にお母さんはいないか」
 男は思わずそう聞いた。幼女は目を瞠って口を開き、男が聞き分けることもできない異国の言葉を吐いた。
 男は幼女の言葉に落雷を浴びたような衝撃を受け、たじろいだ。
 目の前の子に異国人らしい特徴は何もない。自分の子、妻の子だろう、そう思いこんでいた。
「言葉がわからないか。私はこの家の主人だったんだよ。今でも妻がここに住んでいるはずだ」
 一縷の望みをかけてゆっくりと幼女に語りかけてみたが、やはり彼女は理解できないふうだった。唐突に奇声をあげて身を翻し、何事かを叫びながら家の中に駆け込んでしまった。
「待て、」
 足を引きずりつつ後を追おうとしたところで、家の中から腰の曲がった老婆が現れた。
 老婆は男を認め、男も老婆が誰であるかを悟った。妻の母だ。
「お義母さん」
 そう男が問いかけると、老婆はみるみる目に涙を溜めた。
「娘は死んだよ。あんたの子も」
 男が問う前に老婆は告げた。
「今家にいるのはあんたの子の妹だ」
 その父親について、義母は何も伝えなかった。
「娘は最後まであの子をあんたの子だと信じていた。心が狂ってね」
 老婆は顔に手をやり、声を上げて泣き出した。
「軍隊に行くとき、どうして娘を首都に連れて行ってやらなかったんだい」
 それ以上のことは語ることもできず、老婆はいつまでも泣いていた。男は黙って義母の肩を抱き、遅すぎた帰還について運命を呪った。

 夕刻、男は自分の妹が嫁いでいた家を訪れた。
 家の中から女の叫び声がする。耳に聞き覚えのない異国語だ。おそらくあの幼女が喋っていたと同じ言語だろう。女が喚き、怒り狂った男の声が上がり、家の中の家具に何かが勢いよく叩きつけられる音がして、女の声はすぐに啜り泣きに変わった。
 それが妹の声だと理解したとたん、男は叶う限りの早さで家の中に押し入り、銃剣を構えた。
「妹に乱暴をするな!」
 髪を振り乱して顔をくしゃくしゃにしているのは紛れもなく自分の妹で、その眼前に立ちはだかるようにして肩をいからせているのは、妹の夫とは似ても似つかぬ大柄の北方人だった。
「兄さん‥‥‥」
 目を瞠る妹の顔は、自分以上に年老いて見えた。
 北方人の男が何ごとかを喚いた。むろん男には理解できない。妹が床から異国語で声を上げ、北方人はそれにぎょっとしたように体を凍りつかせ、ついでおたおたと家を飛び出した。
 男はようやっと銃剣を下げた。頭の中が麻痺したようになって働かない。
「兄さん」
 妹が呼びかけた。その面には理解と憐憫と、そして自嘲が浮かんでいた。
「帰ってきたのね」
「五年が過ぎた」
「そうね。家にはもう行ったの?」
 男は黙って頷いた。
「あの子を見たでしょう。義姉さんの遺児よ」
「見た」
「父親はいないの。誰なのか見当もつかない」
「おまえの夫はどうした」
「今逃げていったのが私の夫よ」
 男は妹を見据えた。妹は目を逸らしもせず、まっすぐに男を見返した。
「この町は変わったの。もう昔の、兄さんが知っていた町ではないの。早く出ていった方がいいわ。夫が仲間と武器を連れて戻ってくるわよ」
「妻と子はなぜ死んだ」
「知らない方がいいわ」
「なぜだ」
 妹は目を落とし、溜息を吐き、そして云った。
「流れたのよ。町が占領されたときに犯されたの。国が兵士を派遣して、私の夫たちが敵を追い払った時にも。それであの子が産まれて、義姉さんは、ずっとあれが兄さんの子だと信じてた。心の中で時間がわからなくなってたのね。産まれたばかりのあの子を抱いて、お乳をやりながら死んだわ」
 妹の顔がくしゃりと歪んだ。
「私だってそうよ。子供は今はいないけど死んだだけ。きっと夫の子をまた産むでしょうよ。この町は戦場になったの。元には戻らないの。昔の夫は敵に捕虜として連れて行かれて、それきりよ。もう殺されてるんだわ」
 泥と垢で汚れた妹の顔に、二つの涙の筋が通った。
「おねがいよ。あの忌々しい異国人たちを殺して。それが無理なら、町から出ていって、二度と帰ってこないで」
「一緒に行こう」
 男はかろうじてそう云った。だが妹を救えないことはわかっていた。妹は目を瞬いて涙を落とし、笑い、嘲った。
「お腹に子がいるのよ。私なんかを連れて行ったって、二人で飢えるだけでしょう」
 男の右足に目をやり、
「その足じゃ」
 と言い放った。
「さよなら」
 妹の、投げ遣りな別れの言葉を背に、男はその家を後にした。

 外は夕闇が迫っていた。
 男の絶望はやがて怒りに変わった。この町を出ていったときの妹の顔と妻の顔を思い出し、それがもう二度と手に入らぬことに激しい憤りを感じた。男は踵を返し、かつて自分が住んでいた家の前に戻り、そこで再び幼女と目を合わせた。
 相変わらずかじりかけの生芋を手に持っていた。口をぽかんと開け、丸い目でこちらを凝視し、自分を指さして何事かを語りかけた。むろん理解できるはずのない異国の言葉で。
 男は銃剣に弾丸を籠め、幼女に向けて構えた。幼女が怯える素振りも見せないことに苛立ち、引き金を引いた。
 幼女は声もなく倒れた。即死だった。
 驚いた老婆が家から現れた。男はそれも撃った。老婆はしわがれた悲鳴を上げ、腹を抱えて地の上を転げ回った。その様子が、男がたびたび戦場で目にしてきた、敵兵や、負傷した友人や、自分が戦地の町で殺してきた男、女、あらゆる人間とまったく同じ所作で、男はもう一度老婆を撃った。老婆は指で土を二、三度引っ掻いて動かなくなった。
 男は次いで妹の家を訪ねた。妹は兄が戻ってきたことに驚き、また銃声に怯えていた。
「何だったの、さっきの音は‥‥‥」
 だが妹の言葉は最後まで続かなかった。男の銃剣が腹部に刺さり、胸を抉った。妹の体から血が噴き出し、驚愕と苦痛に目を見開いたままその場に倒れた。
 家の中から道に目をやる。夜の帳の向こうに幾つもの松明とランタンの灯が見える。妹の言葉に違わず、妹を殴っていた北方人が、自分によく似た男たちを引き連れて家に迫ってきていた。手に持つ武器は鍬・鍬の類から、時代遅れの猟銃までさまざまだった。奴らのうちの幾人を殺してやろうか手早く考え、男は血塗れの銃剣の弾を籠め直し、肩に構えて銃眼を覗き込んだ。




 唐突に笑い声が聞こえた。
 男はびくりとして自分を取り戻し、白昼夢を見ていたことを悟った。
 周囲にはまだ夕明かりが残っていた。
 目の前に立つ幼女は生きており、自分を指さして笑っていた。
 その目が、鼻が、口が、顎と首の部分が、確かに妻の面影を残していた。
 男はその場に頽れて、声を上げて泣き出した。
 幼女は不思議そうにそれを見つめ、ほんの少し歩み寄る。なにごとかを語りかけ、男に向かって生芋を差し出した。
 男は生芋を受け取った。そして上着の中の金袋に手をやり、芋の代わりに二枚の銀貨を幼女の手の上に乗せた。
 幼女は手にしたものが何であるかを計りかね、目を瞠りながら黙って手の中で遊ばせている。
「君は俺の妻の仇だ」
 男は泣きながら子に訴えた。
「だが妻は君を愛した。だから俺は君を憎まないよ」
 幼女の頭をほんの少し撫で、男は立ち上がった。
 振り返り振り返りながら、ゆっくりと家から遠ざかる。
 幼女は追いかけなかった。
 男の姿が消えるまで、黙ってその場に立ち、手に銀貨を握りしめながらその背を見送っていた。



             *


 その娘は父の顔も名前も知らなかった。
 自分を育てた祖母は、娘には何も告げずに世を去った。
 だが娘には、あるいは父かも知れぬと思わせる男の記憶があった。
 今はネックレスとなった二枚の銀貨がその男が存在した証だった。
 娘が嫁ぎ、子を産み育て、老いて死ぬまで、二枚の銀貨はずっと娘の胸で輝き続けた。









                                            (了)





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